« 『ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)』から独・仏和解の道筋を読む | トップページ | 銅版画に記録された3つの戦争 »

2013年5月 5日 (日)

ドイツ・フランスの和解への道-ある少女の場合-

 前回の記事で私は、『ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)』によって、独仏両国が戦後、どのように和解してきたかをみました。共通教科書は、独仏和解の象徴的行為として、歴史的記念式典に手を携えて参加するフランス大統領とドイツ首相の写真を掲げました。左右の立場を超えて、歴史の記憶と両国の和解を啓蒙しかつ先導してきた政治家たちが、教科書で取り上げられ高く評価されることは、至極当然なことです。しかし、最も注目され重視されるべきことは、両国の人びとの間の和解であることは、言うまでもありません。

 ここに戦後、ドイツとフランスの和解を、身をもって体現したひとりの女性がいます。マリー=ルイーズ・ロート=ツィマーマン。ドイツのザール大学でフランス人学生に、多言語主義にもとづきドイツ語とドイツ文学を教えたフランス・アルザス出身のドイツ文学者。ナチス侵攻とドイツの収容所での少女時代の生活を描いた回顧録『アルザスの小さな瞳-ナチスに屈しなかった家族の物語』(法政大学出版局2004年刊)から、マリー・ルイーズの戦争の記憶と和解への道をたどります。

 1942年10月27日、16歳の高校生だったマリー・ルイーズは、ともに小学校の教師だった両親と一緒にドイツ帝国の警察に逮捕され、生まれ故郷のアルザスの小さな町ビシヴィラーからドイツのシェルクリンゲンのSS移住者収容所に連行されました。家族は、ナチス政権にとって非協力的で好ましからざる分子として、強制移住させられたのです。

 強制移住の2年前、1940年6月、ドイツ軍はフランスに侵攻しアルザス・ロレーヌをドイツに併合しました。ヒトラーは占領後のストラスブールを訪れ、鉤十字の旗がひるがえる大聖堂の前で、「二度と再びアルザスがフランスに割譲されることはない」と演説し、兵士たちの喝采を浴びました。その後アルザスは、ナチスのヴァーグナー大管区長官の決定により、徹底的にゲルマン化、脱ロマンス化されていきます。ドイツ法の適用、ドイツ語の公用語化とフランス語の公的場での使用禁止、道路標示・地区名・案内板等のドイツ語表記化、そして人名のドイツ語化にまで及びます。ナポレオン時代の英雄クレベール将軍の銅像は破壊され、クレベール広場の名称も他に替わりました。また、ナチスが「頭脳蒙昧化帽」と呼んで嘲笑していたバスク帽(ベレー帽)は禁止されました。ナチスにとってアルザス人は、「あらゆる異国の汚辱から解放されて、国家社会主義の教条の主旨に従って再教育されなければならない」のでした。

 ゲルマン化と抑圧政策の最たるものは、アルザス・ロレーヌの青年たちに対する強制徴募の命令でした。1942年から終戦による解放までに、13万人の青年がドイツ国防軍に編入されました。わが意に反して(マルグレ・ヌ)強制徴募された人びとは、応召か服従拒否かの二者択一で苦悩しました。逃亡者は銃殺刑、服従拒否者は強制収容所で監禁され、その家族には収容所送りと財産没収が待ち受けていました。
 追い詰められたうえ徴募に応じた青年たちの多くが、ソ連赤軍との激しい戦闘のつづく東部戦線へ送られ、24,000人もの戦死者をだしました。前回の共通教科書の記事の中で、オラドゥール・シュル・グラヌの住民642人の虐殺事件にふれましたが、事件に関与し起訴された武装親衛隊21人のうち14人が、アルザス出身の不本意編入兵でした。

 さて、マリー・ルイーズと両親は、ナチス政権にとって非協力的で好ましからざる分子として強制移住させられましたが、はたして彼らは何をしたのでしょうか。原因は、ドイツ軍に対する父の抵抗でした。父は、アルザスの公務員に強要された誓約書-それは、アルザスのドイツ帝国復帰支持と職務遂行の誓約を迫った-への署名を拒否し、ナチスによるイデオロギー研修-国家社会主義、新しい歴史観、アルザスのドイツ性-の受講を拒んだのです。また、フランス移住を申請し、親フランスの姿勢を隠しませんでした。やがて父は小学校教員を解雇され、追って母も同じく解雇の憂き目に会い、一家の収入の道は途絶えて生活は困窮しましす。こうした状況にかかわらず、父は秘密裏に、フランス軍脱走捕虜の逃走支援組織に加入し、フランスとの新しい国境ヴァージュ山中からの密出国を支援しつづけました。「好ましからざる分子」であるのは明確でした。こうして、この家族は逮捕され、ドイツの収容所へ強制移住させられたのです。

 収容所では、汚れた衣類から黄色い「星形」を取り外す作業や古い眼鏡やおもちゃの選別作業をしました。それらの物資が、ユダヤ人絶滅収容所からもたらされたものとは、誰一人知りませんでした。昼食はスープ一杯、時にはネズミが浮いていました。夜はワラ布団をかぶり、ノミやダニの襲撃にあいました。また、収容所長等に陵辱されるポーランド女性の泣き声が、拘禁室からもれてきました。
 1943年2月のある晩、アルザス出身の老人たちが、収容所に連行されてきました。強制徴募された息子たちがスイスへの逃亡を企てて失敗し、逮捕されたのです。13人の脱走兵は、シュトルームホーフ収容所で銃殺刑に処せられ、さらに報復措置として、それぞれの両親が、この収容所に送られてきました。

 このように強制収用された人びとの収容所生活は、憎悪と抑圧に満ちたものでした。しかし、16歳の若い感性は、ただ悲嘆にくれてたばかりではありません。幸せだった子供のころの記憶、とくに父親から教わった読書や詩の暗誦の記憶によって、マリー・ルイーズは収容所の生活に耐えることが出来ました。若き日のゲーテが初恋の人フリーデリケ・ブリヨンへの愛と美しいアルザス地方を歌った「歓迎と別離」や「野ばら」を、くり返し朗誦しました。ドイツの優れた普遍的価値をもった文芸と目の前の呪われたナチスとを明確に分けることの出来る知性と感性を、彼女は16歳にして既にもっていたといえます。

 1943年の秋、強制収容者が増えるにつれて収容所は手狭となり、年配のドイツ人林務官の家の二階に、移り住むようになりました。ここでマリー・ルイーズと両親は、近隣に住むドイツ人たちと親しくなります。ホテル所有者、工場主および校長の一家です。収容所のナチスとは違ったこれらのドイツ人を、マリー・ルイーズは「もう一方のドイツ人」と名づけました。彼らは、誠実で素朴で遠来の客に対して親切でした。ラジオ・ロンドンで聞いたニュースを教えてくれ、ヒトラー政権の誇大妄想症を批判しました。マリー・ルイーズと家族は、この人たちを通して、いにしえの人道的な、ゲーテ、シラーのドイツを、あの永遠不変の価値の代表者のドイツを見いだしました。「このいくつかの家族と結んだ友情は、将来のドイツとフランスの共存の萌芽となった」とマリー・ルイーズは顧みます。

 1944年の春になると、米軍機が飛来し始めました。4月のある朝、マリー・ルイーズは、米空軍の戦闘爆撃機により機銃掃射を受け、心臓が破裂しそうな体験をしました。病院の看護助手としての勤労奉仕では、負傷したドイツ兵を看護して、このドイツ人は敵ではなく生きたいと願っている人間なのだと、連帯感すら持つようになりました。同年11月、ストラスブールが解放されたことは、ドイツの友人から聞きました。そして1945年5月8日、ドイツは降伏し戦争は終わりました。その日、収容所のアルザス人はフランス国旗を囲んで解放を喜び合い、フランス軍のトラックに乗ってその日のうちに、故郷アルザスの地に戻りました。この晴れの日、マリー・ルイーズは、仕立てたばかりのアルザスの民族衣装を着て、喜びを現しました。布地はドイツの友人たちが調達してくれたものでした。

 以上が、16歳の少女が体験した第二次世界大戦での強制移住と収容所生活の回顧です。少女の記憶のなかのドイツ人は、「私を傷つけ貶(おとし)めた民族」であるとともに、「私を魅了し宥(なだ)めてくれた民族」でした。それ故にマリー・ルイーズは、当時すでに、次のような見解に達していた、と記しています。
「隣りあった国々の市民がたがいに歩み寄り、出会いと文化交流の機会を頻繁にとらえ、つまりはヨーロッパ諸国間の文化的・社会的関係が強化されたときはじめて、ヨーロッパ共同体が可能となるだろう。・・・すでにそのころ私にとって、未来とはヨーロッパでした。戦争が終わったらドイツとフランスの再融和のために貢献するのが、私の夢でした。」

 戦後マリー・ルイーズは、ストラスブール大学でドイツ語とドイツ文学を学んで修士号を取得し、大学教授資格試験に通って、ドイツ南西部にあるザールラント州立大学に着任しました。そこで彼女は、フランス人学生にドイツ語とドイツ文学を教える一方で、ドイツとフランスの和解のための活動をします。
 ドイツ・フランスの和解とヨーロッパ統一を目標として共有しあった法学者の夫は、1939年にフランスへ避難したストラスブール市民のひとりでした。ヨーロッパ共同体に職を得た夫との間に三人の子供が出来ましたが、それぞれの誕生の地は、ストラスブール、ルクセンブルクおよびブリュッセルでした。マリー・ルイーズはそのことを、「あたかも私たちの願いを保証するかのように」と表現しました。EU(欧州連合)の立法(欧州議会)、司法(欧州司法裁判所)および行政(欧州委員会)の三権の府が、それらの街にあるのです。マリー・ルイーズとその家族にとって、国境を超越した平和なヨーロッパこそが、真の故郷であり母国なのかもしれません。

 フランス東北部のアルザス地方は、ライン河をはさんで、ドイツとの国境地帯に位置します。17世紀来フランス領でしたが、1871年の普仏戦争の結果、ロレーヌとともにドイツ帝国に併合されました。そして、第一次世界大戦後は、戦勝国フランスに返還されますが、1940年から45年までナチスによって再びドイツに併合され、そして戦後、三度フランスへと返還されます。アルザス・ロレーヌ地方は、このように幾度となく、フランスとドイツの間を揺れ動いてきた歴史を持っており、フランス人にとってもドイツ人にとっても、憎悪と分断を意味する地域でした。それが第二次世界大戦後、フランスとドイツの和解と統一を象徴する地域へと変容し、いまやヨーロッパ統一の中心地となったのです。マリー・ルイーズとその家族は、まさに、フランスとドイツの和解とヨーロッパの統一を、身をもって体現したのです。

« 『ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)』から独・仏和解の道筋を読む | トップページ | 銅版画に記録された3つの戦争 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ドイツ・フランスの和解への道-ある少女の場合-:

« 『ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)』から独・仏和解の道筋を読む | トップページ | 銅版画に記録された3つの戦争 »