6・2脱原発集会&デモ
東京タワーの下、港区芝公園で開かれた脱原発集会に参加しました。明治公園や代々木公園とくらべてやや狭い公園でしたが、会場は立錐の余地がないほどに参加者で埋め尽くされ、人びとの脱原発の意志の変わらなさを印象付けました。
多くの幟(のぼり)旗が会場にはためいていましたが、労働組合や生協などのものは少なく、ほとんどが「脱原発」の意志を直接表現するものでした。ここには、組織的な動員参加の気配が、まったくありません。
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呼びかけ人のひとり大江健三郎さんは、3・11後ドイツがいちはやく、人類にとっての最大・根本の倫理は、次の世代が生き延びる事を妨げないことだ、として脱原発を決意したのに対して、日本政府は経済のために再稼動を決意している、と語りました。
福島の有機農業家・渡辺みわこさんは、政府の原発輸出を厳しく批判し、未来を生きる子どもたちのことを思い涙する日々のことを報告しました。もうひとりの呼びかけ人・鎌田慧さんは、この夏再び原発ゼロを迎えるが、福島の被災者のことを忘れないで決して再稼動をさせない、という決意を力強く述べました。
発言者の多くが、安倍政権による原発再稼動と原発輸出のたくらみを非難し、福島の被災者との連帯を訴えかけました。
多くの参加者が、自分の主張を幟やプラカードに書いて、街ゆく市民にアッピールしました。
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デモは、芝公園から新橋駅近くを経て東電本社前へと進み、ここで「原発再稼動反対!」「東電は損害賠償に応じよ!」などとシュプレヒコールをくり返したあと、日比谷公園で流れ解散となりました。4㎞1時間半のデモの間、晴れ渡った初夏の空のもと、東京湾からさわやかな海風が吹いて、大変気持ちのいい行進でした。福島の空の放射能汚染を思いながら、この国の首都の空気のきれいさに複雑な気持ちとなりました。
芝公園で中年男性のラッパーが、脱原発ラップのなかで、「ワカモノ デテコ~イ!ミライハ オマエタチノモノダゾ~!」とうたっていましたが、その若者たちが日比谷野外音楽堂のまえに長蛇の列をつくって、夕方からのコンサートを待ちうけていました。日大全共闘の旗を掲げた団塊世代と思しき一団が、丸く固まって肩を組み合い、インターナショナルを歌っていました。
4時からは、国会周辺で開かれた「反原発国会大包囲」行動に参加しました。芝公園での集会・デモと同時に明治公園でも集会・デモが開かれており、この両方の参加者が再び、国会周囲に結集して、国会を包囲しょう、との呼び掛けでした。
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金曜日の官邸前抗議集会には、一度参加したことがありますが、国会での集会参加は初めての経験。到着したときはすでに、国会正面を中心に歩道は人びとで埋め尽くされていました。5時前には、サイクリング部隊が「包囲完了!」の看板を掲げて、通りすぎました。警察官の数は、集会参加者には及ばないものの、相当数配備されていました。制服の警察官の多くが善人の顔そのものでしたが、なぜだか私服の警察官はことごとく、その表情は陰険で嫌な印象を受けました。
議事堂正面の街路灯のてっぺんにカラスがとまって、集会の様子を見ていました。黒の議事堂イメージは、あの松本竣介の「議事堂のある風景」(1942年)を思い出させました。ひとりの男が、棺(ひつぎ)を載せた大八車をひいて、議事堂を後にする絵です。太平洋戦争の始まったその年、棺の中には最早死体となってしまった政治(議会)が横たわっていたはずです。そして、松本竣介が現在生きていたならば、3・11から2年余で原発再稼動と原発輸出をたくらむ政治に対して、どのようなイメージの絵を描くだろうか、と議事堂を前にして考えました。
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