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2013年8月10日 (土)

フランドルおよびアルザス、ロレーヌへの旅-1-

 まずは、しばらくの休載をおわびします。なれない旅行とその準備のために、パソコンに向う余裕が、ありませんでした。   

  旅行記を、しばらくつづります。
 行き先は、ベルギー北部のフランドルとフランス東北部のアルザス、ロレーヌ。旅行期間は、7月17日から8月6日までの20日間。
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 シント・ニクラス(7/18・木) 
 
 最初の訪問地は、フランドル北部の小都市シント・二クラス。アントワープの南西12㎞(直線)ほどのところにあります。今回の旅の同行者である長女が、この地に暮らします。人びとの自慢のひとつは、ベルギーで最大の広さを誇る市役所前の広場。この朝ここで、500年の歴史があるというマーケットが開かれました。私たちの到着した昼すぎには、店のテントやトラックは片付けられ、ただ仮設のメリーゴーランドのみが、二人の幼児をのせて、音楽に合わせ回っていました。Img_8316_3 旅行の準備もあって、広場から鉄道駅につながる商店街を、歩きました。人口7万人の街のおしゃれな下町です。ウィークデイにかかわらず、そこそこの買い物客が行き交っています。閉じた店がいくつかありますが、9割方が営業しています。郊外には、モール形式の大店舗が開設されていますが、この商店街は、「シャッター通り」からは縁遠い感じです。娘の靴と私の小さなバッグを買うために、靴&鞄の店に入りました。アフリカ系の美しい店員が、愛想よく対応してくれました。Img_8324 街角では、複数の子どもを連れた女性をいく組か、見かけました。東ヨーロッパからの移民労働者のようです。ショールで頭を被った女性は、トルコや北アフリカからの移民者のようです。住民に占める外国人の割合は、市人口の6%ほど。この街も、ヨーロッパの他の都市同様、多様な人びとと文化とが共存しています。しかし、こうした移民労働者とその家族の急増を背景にして、その排斥とフラマン(フラマン語=オランダ語圏)の独立を訴える極右政党が、支持を広げているようです。Img_8328  商店街からやや離れ小さな広場に、二人の兵士のブロンズ像が建っていました。斃れた戦友を抱きかかえた兵士の像です。石碑には、「権利と自由の戦い 1914‐1918、1940‐1945」と刻まれていました。二度の世界大戦の勇士を称え戦死者を追悼する記念碑です。生死を分けた兵士たちの表情は、暗く悲劇的です。また広い緑地公園には、ベルギーと韓国の国旗の刻まれたモニュメントがありました。こちらは、朝鮮戦争の英雄たちの栄誉を称える石碑でした。ベルギーは、第二次世界大戦後も、戦争を続ける国家なのです。現在もアフガニスタンに、NATO軍の一員として530人の兵士を送っています。Img_8341  再び広場から市役所を眺めます。玄関脇に、赤いガウンをまとった大きな聖ニクラス像が立っていました。この街の名称は、この聖人にちなみます。聖ニクラスは海運の守護聖人とされ、またサンタ・クロースのモデルとも云われます。聖ニクラス教会は、この街同様に、ヨーロッパ各地にあり、シント・ニクラス名の街も、各所にありました。市役所には、ベルギーの三色の国旗とともに、ヨーロッパ連合のEU旗がはためいていました。長方形の青地に、12個の金色の星が、円を描いたもの。その後訪れたベルギー・フランス・ドイツのすべての公的施設には、国旗とともにEU旗がはためいていました。Img_8322  娘のアパートに帰り、ベットに横になって窓の外を見ると、聖母マリア教会の尖塔が見えました。午後9時現在、陽の力は落ちたとはいえ、いまだ煌々とした明るさです。そして10時近くになると尖塔は夕日に輝き、さらに日のすっかり落ちた11時過ぎには、頂点に聖母像をいただいた尖塔が、ナトリウム灯によってライトアップされ、闇夜のなかに黄色く浮かび上がりました。今回の旅の初日は、こうして暮れていきました。Img_8355

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