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2013年8月15日 (木)

フランドルおよびアルザス、ロレーヌへの旅 -6-

サント・オディール修道院(7/24・水)

Img_9321_1 コルマールからストラスブールに向う途中、モン・サント・オディールとナッツヴィルに寄る。前者は山中にある女子修道院、後者はナチスの強制収容所跡。どちらもヴォージュ山中にあり、標高700mから1000mのところにあります。道路は丁度、群馬や長野にある山間部の自動車道路と変わらない。まわりの景色も、建物さえなければ、群馬や長野の山中と見間違えるようです。

Img_9325_2 サント・オディール修道院の入り口のアーチをくぐると、敷地の奥の礼拝堂から、グレゴリオ聖歌のキリエ(憐れみの賛歌)の歌声が聞こえてきました。礼拝堂の中は年老いた巡礼者でうまり、聖歌隊とともに歌った巡礼者の歌声が、石造りの御堂内に響き渡っていました。ミサはフランス語ですすめられ、キリエを除く聖歌もフランス語でした。ただ、最後に歌われた聖母マリアの賛歌は、ドイツ語でした。駐車場には、フランスナンバーの大型バスが2台とドイツナンバー1台が止まっていました。ここは、アルザスを代表するカトリックの巡礼地なのです。
Img_9296_1_2  アルザス最初の女子修道院の創設者であるオディール(720没)には、次のような伝説が残されています。
 アルザス公と妃の間に生まれた女児は盲目でした。これを天罰だと信じた公は、赤子殺害を命じます。妃はひそかに赤子を修道院に隠します。赤子は、オディールと名付けられ洗礼を受けると、目が見えるようになりました。この姉を迎えようとした弟は、父の逆鱗に触れて殴打され、これがもとで亡くなりました。父は後悔し深く悲しみます。ようやくオディールは、城に迎えられました。
Img_9336_1_3  慈愛に満ちたオディールの評判は、アルザス内外で高まり、父は娘に結婚を迫ります。しかし、イエスに仕えることを誓ったオディールは、再び父に追われる身となりました。逃亡のすえ大きな岩山にたどりついたとき、突然岩が開いてオディールは身を隠すことが出来ました。オディールの身にたびたび起こった奇跡に、やっと父は目を覚まし、居城をオディールに与えて修道院とすることを許しました。修道院は690年に完成し、各地から修道女が集まり、オディールの奇跡をもとめて、多くのカトリック信者が集まりました。写真は、修道院の裏庭にあったImg_9357_1小さな「涙の礼拝堂」のモザイク画。オディールが、父の魂の永遠の救済を祈っています。
 サント・オディール修道院は、巨大な岩盤の上に建っています。まず先住民ケルトが石垣を組み、そのうえにローマ軍が要塞を築きました。そして7世紀、アルザス公がローマ軍の要塞あとに、山の居城を建てたのです。オディール修道院は、この居城に創られたものです。ヨーロッパのどこでも見られる景色です。ケルト・ローマ・ゲルマンそしてヨーロッパ、文明が重層しているさまは、まさに圧巻です。

ナッツヴァイラー強制収容所 

Img_9398  標高764mの山中にあったサント・オディール修道院から西に向って進むと、標高は更に高くなり、カーナビの表示では峠で1031mを記録しました。このあたりは木も少なく、牛の姿はありませんでしたが、放牧地のようでした。峠からゆるい坂を下っていくと間もなくして、右手に大きなコンクリート製のモニュメントが見えてきました。尖った先端が、天空を突き刺しています。ナッツヴァイラー(仏語:ストリュートフ)強制収容所です。
 1940年、フランスはドイツに降伏し、アルザスはドイツ領となりました。ドイツ軍は、ヴァージュ山脈の赤色花崗岩を採掘するために、この地に強制収容所を設置し、囚人に過酷な採掘作業を強いました。強制収容所には、最も多いときには7000人を超える囚人が囚われの身となりました。地元アルザスの人間を中心に、レジスタンスや政治犯が収容されました。また、アウシュヴィッツから移送されてきたユダヤ人やロマ人も含まれており、ガス室や人体実験の犠牲者となりました。1944年11月にアメリカ軍が到着したときには、焼却場のわきに数百の死体が放置されていました。
Img_9418_1 強制収容所のゲートは、骨組みの丸太と太い金網で頑丈に作られ、収容所周囲は高圧電流の流れる有刺鉄線が、二重に張られています。 ゲートに最も近いテラスには、絞首台が設置され、その近くに花崗岩を運んだ手押し車が、無造作に置かれています。最下段のテラスには2棟のバラックが建っており、一方が狭い牢屋が教室状に並ぶ独房棟であり、他方が死体焼却炉の設置された死体処理棟です。10mほどの高い煙突が、なんとも忌まわしい。
 ゲートから外へ出て100mほど進むと、強制収容所から隔絶した森の中に、プールのある瀟洒な住宅が建っていました。強制収容所の所長官舎と説明されました。
 モニュメントのまわりには、たくさんの十字架の墓標が立っていました。そこには、氏名と逮捕理由が書かれており、下段に記された年月日は、おそらく遺体の発見日ではないかと想像されます。氏名不明者の墓標も少なからずありました。また、両肩を丸くした平らの石柱には、ユダヤの星のマークが印されており、ユダヤ人犠牲者の墓であることがわかります。
 Img_9488 博物館には、強制収容所の犠牲者の写真とともに、加害者であったナチスの高官たちの写真も展示されていました。そして最後のパネルには、戦後のドイツの指導者たちが、ナチスの犯した戦争犯罪を謝罪し、フランスの指導者がそれを受け入れて、両者が和解する象徴的なシーンの写真が、張られていました。
  駐車場には、フランスナンバーにまじってドイツナンバーの車も何台か止まっていました。眼前に広がるナチスドイツの暴虐を許してしまったドイツ人の子孫が、被害者であったフランス人やユダヤ人の子孫とともに、ナッツヴァイラー強制収容所において、過去に向き合っていました。ナチス・ドイツの同盟国であった日本からきた私も、そうした史実にもとづいて、犠牲者の霊に頭をさげました。

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