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2013年8月14日 (水)

フランドルおよびアルザス、ロレーヌへの旅 -5-

アルザス・ワイン街道、オー・ケーニヒスブルグ城(7/23・火)

Img_9037  この日は、日帰りの小旅行に出かけました。コルマールから北へ約20㎞のヴォージュ山中にあるオー・ケーニヒスブルグ城を訪ね、帰路、ワイン街道の村リクヴィールとカイゼルベルクに寄ります。
 出発して間もなく、コウノトリの飛来する麦畑の向こうにブドウ畑の斜面が広がり、そのさらに向こうの山頂に、威風堂々たる山城が見えてきました。アルザスを代表する中世の城砦オー・ケーニヒスブルグ城です。 

Img_9047_2  中世このあたりは、南北の小麦とワインの街道と東西の塩と銀の街道が交差し、交易の要となっていました。ハプスブルグ家やその後の領主たちは、山の戦略的な重要性を認識したうえで、この城砦を築きました。15世紀後半の大砲の出現は、領主に大砲の設置とともに防御の見直しをせまり、大改修されました。フランス・スェーデン連合と神聖ローマ帝国が戦った30年戦争(1618~48)で、スウェーデン軍の1ヶ月に及ぶ攻撃の末、この城は略奪にあい、ついに焼け落ちました。その後200年間、放置されました。
Img_9049 入り口で日本語版のイヤホーンを借り、城門をくぐって前庭に入ると左手に、ほぼ垂直に築かれた高い城壁がありました。その下で、小学生たちが鉄兜を被った中世の騎士から、城の説明を受けていました。前庭から急な階段を登り、跳ね橋を渡って城の中に入ります。60mもある深い井戸や食糧貯蔵庫があり、篭城戦の備えがされています。住居部分には、台所や流しもあり、暖炉は緑色に彩色された陶製のものでした。井戸が数箇所掘られており、山頂部に建つ山城での水の確保の苦労を忍ばせます。
Img_9134_4 南向きの心地よい部屋として紹介された領主の書斎も、窓辺を除けば暗くそして狭い。決して快適な住居ではなかった、と想像します。このほか、礼拝堂、狩猟の間、武器の間などがあり、当時の戦争と生活のあとをたどりました。西の端にある大城塞の塔からは、ヴォージュの山々や街道を見下ろすことが出来ました。ここから領主たちは、領内の交易の安全と外敵の侵入に備えたことがわかります。しかし、この山城の威圧的ともいえる姿を見ていると、この城が領主の圧倒的な権力と権威を領民に見せつけるためのシンボルであったことを想像させます。 
 30年戦争のあと200年以上も放置されたImg_9147城は、一時地元のセレスタ市によって修復された後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世(1859~1941)に寄贈されました。ヴィルヘルム二世は、中世史の研究家であり建築家であるボド゙・エバルトを登用し、オー・ケーニヒスブルグ城の修復作業(1900~08)を完成させました。ヴィルヘルム二世のねらいは、「アルザスはドイツ帝国領である」ことを、独仏両国の内外に宣伝することであった、とイヤホンから流れてきました。1871年から1918年の間、この地はドイツ領となっていました。

Img_9055_1 Img_9089_1 Img_9111_1 Img_9093_1

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Img_9178_2 ルザス・ワイン街道、リクヴィール
Img_9167_1_2 オー・ケーニヒスブルグ城からコルマールへ戻る途中、アルザス・ワイン街道を南下し、リクヴィールに立ち寄りました。1200人ほどの小さな村で、第二次世界大戦でも戦禍をまぬがれ、400年にわたる古い町並がそのまま保たれてきました。周囲をブドウ畑に囲まれ、この村もワイン醸造の地であることを知ります。
 アルザスのワイン生産の最盛期は、14世紀末だといわれます。現在の750ml瓶に換算して6000万本以上が輸出されていたそうです。ストラスブールImg_9168やコルマールに集荷され、フランクフルト、ケルン、バーゼルを経て、オランダ、イングランド、北海沿岸、スカンジナヴィア諸国まで手広く輸出されました。 アルザスワイン街道の町・村のもっている歴史的インフラの豊かさは、このワイン醸造にありました。そして現在もまた、これらの町村の豊かさは、ワインに依存しています。村を見おろすブドウ畑にのぼり、「フランスの最も美しい村」を見下ろしました。観光客でにぎわう通りの喧騒は消え、中世の町並みが、静かに横たわっていました。旅の醍醐味を味わいました。

ルザス・ワイン街道、カイゼルベルク
Img_9235 リクヴィールから15分ほどでカイゼルベルクに到着。町を見おろす丘の上に、城砦が建っていました。町の中をきれいな水の谷川が流れています。ここもリクヴィールにまけず、中世の美しい町並みを残しています。観光客は少なく、町全体が落ち着いた雰囲気です。この地は、アフリカの聖人、アルバート・シュヴァイツァー(1875~1965)の生まれたところです。早速、シュヴァイツァー博物館(右の写真)にいってみました。 生家はルター派の牧師の家で、小さな礼拝堂が今も残っています。
Img_9219 博物館には、当時の仏領赤道アフリカ、ランバレネでの医療活動の模様が、紹介されています。博物館の入り口近くに小さく質素なオルガンが置いてありました。シュヴァイツァーが、ランバレネでの医療活動の合間に、ひいていたもののようです。
 シュヴァイツァーは、シュトラースブルク大学で哲学とプロテスタント神学を学び、さらに30歳になって医学を学んで医者となりました。ドイツ帝国時代のアルザス(エルザス)で生まれ、アルザスでは少数派のプロテスタントの牧師の息子であり、そしてImg_9214ドイツ帝国大学で学問を学びました。またバッハ研究の第一人者でありました。はたしてシュヴァイツァーは、フランス人なのか、それともドイツ人なのか?ウィキペディアのシュヴァイツァーの項には、次のようにあります。「ドイツ出身のアルザス人で、フランスの神学者・哲学者・医者・オルガニスト・音楽学者」。ウィキペティア執筆者の苦労のあとが、見て取れる文章です。私もシュヴァイツァーをドイツ人だと思っていました。それが、サルトルの親戚だということを知ったとき、おやっ、と思ったことを記憶しています。この人もまた、アルザスの苦悩の歴史を自ら体現したひとりなのです。

Img_9256  コルマール最後の夜、旧税関前の広場で、地元の皆さんによるアルザス民族舞踊の催し物がありました。田舎の村祭りの趣です。観客は、広場の石畳に座り込み、さかんに手拍子をおくりました。

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