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2013年8月12日 (月)

フランドルおよびアルザス、ロレーヌへの旅 -3-

ランス(7/20・土、21・日 シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏マルヌ県、人口20万人)

P1080384_1  ベルギーでの2日間の滞在の後、フランス東北部アルザス・ロレーヌへの10日間の旅に出かけました。ここからは、娘の運転するフォルクス・ワーゲンのゴルフが、私たちの足となります。シント・ニクラスから高速道路に乗り、翌7月21日の新国王就任式でにぎわうベルギーをあとに、ランスを目指しました。ゴルフは、広々とした耕地を横切り、時速130㎞で快調に走ります。地元のベルギーナンバー(B)にまじって南下するオランダナンバー(NL)が多い。フランスにはいると俄然、イギリスナンバー(GB)が増えました。初めての左ハンドル車というドライバーの運転も至極、順調な様子。

Img_8479_1_2  シント・ニクラスから300㎞、3時間余でランスに到着。アルザスにいくまえに、ここで1日滞在。
 5時すぎ、藤田嗣治(1886~1968)の祭壇画のあるノートルダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)礼拝堂(1966)を訪問。広い芝生の庭に小さな礼拝堂が建っていました。シャンパーニュの片田舎の教会の風情です。中に入ると丁度、教会守りの男性が、5,6人の若いフランス人たちを相手に、藤田の仕掛けたステンドグラスのなかの隠し絵について、説明していました。
Img_8475 藤田は、1959年にランスの大聖堂で、カトリックの洗礼を受けました。これをきっかけに、キリスト像(降誕・磔刑・降架)の秀作を残しています。そして生涯の最後に、この地に自分で設計した礼拝堂を建てることに挑戦しました。建物、彫刻、ステンドグラス、壁画などすべてを藤田がデザインしました。壁画には、ルネサンス期のフィレンツェの画家たちと同様に、困難なフレスコ画を制作しました。この礼拝堂の完成まで、一切面会謝絶であった、と本人が語っています。藤田の晩年は、この礼拝堂の建設を通して、心の平穏を得たようです。
Img_8476 礼拝堂の入り口の壁面に、レリーフを施した石板が2枚、はめ込まれていました(写真上・右)。この小さな礼拝堂にふさわしい小作品ですが、綿羊の毛並みや魚の鱗や尾びれが、丁寧に刻まれています。壁面に描かれたフレスコ画とステンドグラスを、こころを込めて鑑賞しました。おやっ?ステンドグラスのなかに、奇妙な絵があります。動物たちがいっぱいのノアの箱舟にならんで、女の下半身に舌なめずりする男が描かれていました。人間の堕落をテーマにした絵でした。
 藤田のフレスコ画のうち中央正面にあった祭壇画「聖母子像」を、画集からコピーして掲載します。藤田晩年の傑作を、礼拝堂を思い出しつつあらためて味わいたい。

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Img_8484_3 先に読んだ「ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)」には、ランス市とランス大聖堂が、両国民の和解のための「象徴的な行為、記憶の場所」として紹介されていました。
 ランス大聖堂はフランス国王の即位の場所として知られ、外国の支配に対するフランス国民の矜持を象徴するものでした。一方、ドイツにとってランスは、フランスを攻略する上で戦略的に極めて重要な街として認識されていました。第一次世界大戦中の1917年、ドイツ軍の砲撃で街は破壊され、ランス大聖堂も一部が損壊しました。Img_8512
 1962年7月8日、ド・ゴール大統領とアデナウアー首相は、ランス大聖堂で行われたミサに一緒に参列しました。その翌年1月、独仏協力条約(エリゼ条約)が調印されました。
 共通教科書は、独仏の協力関係を祝福する場所として、敵意と屈辱を経験した場所が何故選ばれたのか、と両国の高校生たちに問うています。
 ここには、加害と被害の両者が一緒に、歴史に向き合っている姿を認めることができます。一方が謝罪と反省の気持ちを伝え、他方が寛容と自省の心で受け入れる。こうして両国民の和解が、徐々にしかも確実に進んでいく。ランス市とランス大聖堂は、まさに両国民和解の象徴的な場所であり、記憶の場所なのです。そして、このことを両国の高校生が共通教科書で学んでいることに、深い感動を覚えました。共通教科書を読みながら、是非、ランス大聖堂に行ってみたいと思いました。

 ランス大聖堂。圧倒する大きさと左右対称の端正な姿に、思わず目を見張りました。夜の10時30分、群青色の空に二つの尖塔が、そびえ立ちます。大聖堂前のレストランで、フランスに入って初めての夕食をとりました。やがて人びとが集まり、石畳のうえに思い思いに座りだしました。何かイベントがはじまりそうです。
 11時、大聖堂を照らしていたライトが一瞬消えたあと、色鮮やかな光の束が、大聖堂を飾りはじめました。静かにグレゴリアン聖歌が流れます。大聖堂の建設過程が、彩色豊かに表現されていきます。やがて鐘の音や中世の音楽が、電子音によって再現されます。予期しなかった光の祭典に、娘も私もうっとりと酔い痴れました。

Img_8688  前日の興奮も冷めやまず、朝再び、大聖堂へ行きました。勿論、光に装飾されない大聖堂は、ことのほか美しい。9時30分、大聖堂でのミサがはじまりました。隅の方に座って、参列しました。アフリカ系の若い神父が、司祭を勤めます。聖歌隊は、初老の男性5人。長年歌ってきた様子が見て取れます。30人ほどの老若男女の信者が、参列しています。ミサはすべて、ラテン語で進められました。パイプオルガンの演奏と聖歌隊のあとにつづいて、キリエ、アレルヤ、グロリアなどを歌いました。1970年頃以前の日本のカトリック教会も、ミサはラテン語で進められていました。その頃まで教会に通っていた私には、ラテン語のミサが大変懐かしかった。ラテン語の聖歌を口ずさむ私に、娘は珍しいものを見るように、顔を覗き込みました。後を振り返ると、シャガールのステンドグラスが、光り輝いていました。

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