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2013年8月18日 (日)

フランドルおよびアルザス、ロレーヌへの旅 -7-

ストラスブール(7/25・木、アルザス地域圏首都、人口27万人)

Img_9803_1 前日の夕方、河港近くのホテルにチェックインし、早速、観光客用の水上バスに乗船して、1時間のストラスブール遊覧に出かけました。水上バスは、旧市街を楕円状に囲んだイル川の水路を進み、欧州議会まで周遊します。車窓観察ならぬ船上観察から見えたもの。運河と閘門(運河の水面調節装置)と旧税関は古今、この街がライン河の水運を利用した商業都市であったことを教えてくれます。大聖堂と木組み住宅は、ストラスブールがアルザスを代表する都市であることの表徴。Img_9513 ドイツ帝国によって建設された共和国広場の建築物は、国境の街ストラスブールの近代史を映しだします。そして、ヨーロッパ議会は、この街がフランスの辺境にありながら、ヨーロッパの中心であることの証し。9時30分、遅い夕陽が古今の建築物に映えて、美しい。

Img_9880 ホテルから1歩外に出ると、木組み住宅とその向こうに聳え立つストラスブール大聖堂の尖塔が見えました。ストラスブールを代表する歴史的景観。このあたりには、カフェーやレストランが軒を並べ、多くの観光客で賑わっていました。昼間は車両禁止のため、到着時、なかなかホテルにたどり着かず、周辺道路をグルグル回るばかり。やっとパトカーの警察官の配慮で路上駐車をし、ホテルにたどり着きました。

Img_9493_1_3 ストラスブール大聖堂は、威容な姿で現れました。まず、建物全体が、淡紅色に染められており、その異色さに圧倒されます。ヴォージュ山脈で採掘された赤い砂岩からできているのです。次に、尖塔が北側のみにあり、正面から見ると、左右が非対称的であること。 端正な姿をしていたランス大聖堂と好対照です。しかも、ランスでは広い広場で距離をとって大聖堂を見上げることができたのに、ここでは広場は狭く、真近から大聖堂を見上げなければなりません。いやがうえにも、その威容さに圧倒されます。しかし、大胆ともいえる色と形にくらべて、ファサード(西正面)の壁面を飾る垂直の細い石柱は、「石の刺繍」と呼ばれるのにふさわしく繊細で美しく、扉口の左右に並ぶ若い男女像も生き生きとしていて、楽しい。
Img_9530_2 この大聖堂は、歴史の画期に、ストラスブールとアルザスの運命を象徴する場所として再三、登場します。1681年10月、フランス国王ルイ14世は、アルザス全土がフランス王国の領土になったとき、大聖堂のミサに参列しました。100年後のフランス革命の時には、大聖堂の巨大な尖塔は、平等に反するとして解体の危機にされされますが、革命派の帽子を被せることで、事なきを得ました。1940年6月、ストラスブール大聖堂の天辺に鉤十字の旗が掲げられ、ヒトラーが大聖堂を指して叫びました。「この宝石をフランス人に返さなくてはならないのか?(絶対にノーだ!)」。

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 1本の尖塔が建ちあがる屋根のうえまで、螺旋階段を登っていきました。石の壁が途切れ、細い鉄柵を通して下界を見おろすと、高所恐怖で足が震えます。18世紀末、ストラスブール大学に留学していた20歳のゲーテは、高所恐怖症を克服するために、何度となく大聖堂の尖塔にのぼり恐怖と戦った、といいます。ゲーテののぼったのは142mの高さの尖塔の先だったのでしょうか。私たちの登ったのは、展望台となっている屋根のうえまでで、66mの高さです。Img_9572
 展望台からの眺望がすばらしい。西の彼方には、前日訪問したモン・サント・オディールやナッツヴァィラーを包み込んだヴォージュ山脈が南北に連なっており、東側は、旧市街の先に新しい高層アパートが立ち並び、その先に緑地帯が南北方向に走っています。多分この緑地帯が、ライン河の筈です。その向こうはドイツ。目と鼻の先です。この日は、霞んでそれ以上の遠望が出来ませんでしたが、ドイツのシュヴァルツ・ヴァルト(黒い森)もそんなに遠くではありません。

Img_9638 共和国広場の中央に、斃れた二人の息子を膝のうえに抱きかかえた母親像がありました。1936年に建てられた戦没者慰霊碑です。二人の息子は、手を結び合って西と東に向いています。前者がフランスを後者がドイツを表し、母はストラスブールを表しているという。独仏に引き裂かれたアルザスの青年たちの祈りの声が聞こえてくるようです。しかし4年後、アルザスの息子たちは、ある者はドイツ兵となり、ある者はレジスタンスに身を投じて再び、引き裂かれました。Img_9634_1
 この広場は、19世紀末にドイツ帝国によって整備され皇帝広場と称されましたが、1918年、フランス領になるとともに共和国広場と改称されました。1940年、再びドイツ領となるとビスマルク広場となり、戦後三度フランス領となると、共和国広場に戻りました。アルザスの悲劇は、首都ストラスブールに顕著に現れます。

Img_9662_2  ストラスブール東北部のイル川とマルヌ・ライン運河の合流点に、ヨーロッパ関連の施設が集まった地域があります。ヨーロッパ評議会の建物の前庭には、47ヶ国の加盟国の国旗が掲げられていました。トルコやロシアの国旗もあり、ヨーロッパ評議会の幅広さを物語っています。1949年に設立され、ヨーロッパの包括的な統合を目指しています。評議会内の組織として、人権と自由を守るためのヨーロッパ人権裁判所があり、その建物もこの地区にありました。    
Img_9669_1_3  ヨーロッパ議会は、直接選挙で選ばれたヨーロッパ連合(EU)の立法府のひとつ。もうひとつの立法府であるEU理事会や内閣に当たる閣僚理事会等はブリュッセルにあり、ヨーロッパ司法裁判所は、ルクセンブルクにあります。平和と繁栄のために、ヨーロッパの統合を目指すヨーロッパ連合(EU)の主要な機関が、独仏にはさまれた小国ベルギーやルクセンブルクと、ドイツでもなくフランスでもない(あるいは、フランスでありドイツである)アルザスに置かれた意味は、決して小さくないと思います。将来の東アジア共同体をイメージしたとき、これらの国際機関はきっと、ソウルや那覇や台北などの小国や地域に置かれるのかもしれない、と想像しました。

 

 
 

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