フランドルおよびアルザス、ロレーヌへの旅 -9-
ナンシー(7/28・日、29・月、ロレーヌ地域圏、人口11万人)
土曜日、街の薬屋の温度計は34℃。ここ2,3日、猛烈に暑い。朝市では帽子屋が大繁盛でした。昼前、ストラスブールをあとに、ナンシーに向かう。高速道路に入ってしばらくすると、前方を数台のオランダ・ナンバーのアンティーク・カーが、スローライフを楽しむようにゆっくり走っていました。彼らを追い越した後一般道に降りると、広々とした麦畑が延々とつづいていました。すでにロレーヌ地方に入ったようです。
ナンシーの街は長年、ロレーヌ公国の首都であったことを反映して、きらびやかで優雅な雰囲気が残っています。特に、スタニスラス広場から凱旋門を通り、カリエール広場を経てロレーヌ公宮殿にいくあたりは、公国首都の名にふさわしい。共和制ゆえに市民主体の街づくりをしたストラスブールと対照的です。18世紀に建設されたスタニスラス広場には、ロココ様式の金属細工で
装飾された門や柵があり、いずれも金色が施され、豪華さをましています。
フランス国王ルイ15世の義父、ロレーヌ公スタニスラス(広場中央の銅像の人)は、ポーランド王からロレーヌ公になった人。18世紀、ナンシーの街を整備し、ルイ15世を称えて国王広場を造りました。これが現在のスタニスラス広場。ポーランドとフランスの古い縁(えにし)を象徴する場所です。同時期に建設された市庁舎の玄関の壁に、2005年5月19日、ポーランド大統領クファシニェスキーとドイツ首相シュレーダーおよびフランス大統領シラクの3首脳が、ここナンシーに会合したことを示すプレートが掲げられていました。 帰国後調べてみると、この3ヶ国はワイマール三角連合を結成し、当初はポーランド支援を目的にしていましたが、その後、ヨーロッパ連合(EU)の問題に取り組み、最近では集団安全保障について、EU委員会に対して共同書簡を提出した、
とありました。ロレーヌ公国は、神聖ローマ帝国とフランス王国の間に挟まれ、たびたび戦乱に見舞われてきました。その首都であったナンシーで、ポーランド大統領を交えてフランスとドイツの両首脳が、ヨーロッパ全体の平和と安全保障について語りあった、という訳です。史実に依拠した心憎いばかりの演出に、ヨーロッパ社会の成熟ぶりを見るようです。 (写真右:凱旋門18C、左:クラフ門15C)。
ホテルの前の小さな公園に、アルザスとロレーヌの民俗衣装を着た、悲しむふたりの少女像がありました。台座の石には、「1871-1918」と刻まれていました。ロレーヌ公国は、スタニスラス公の死後フランスに併合されますが、1871年普仏戦争の結果、アルザスとともにロレーヌの一部が、ドイツ領となります。そして1918年、第一次大戦の結果、再びフランス領となりました。「1871-1918」は、アルザスとロレーヌの一部がドイツ帝国領であった時代を指します。
アール・ヌーヴォーのナンシー
日曜日は、朝から強い雨。前日までの猛暑から一転、肌寒い朝を迎えました。猛暑の中の旅行で疲れた身体を休めるには、格好の天気でした。終日、のんびり美術館めぐり。
ナンシーは、もうひとつのアール・ヌーヴォーの街。建築家ヴィクトル・オルタが、ブリュッセルのアール・ヌーヴォーを代表するとすれば、ナンシーのそれはガラス工芸作家のエミール・ガレ(1846~1904)だといえます。ガレとその周囲のアーティストたちの作品を集めたナンシー派美術館に足を運びました。(写真:ナンシー派美術館入口) 諏訪湖の北沢美術館で、膨大な数のガレ・コレクションを見たことがあります。トンボや藤の花などの身近な昆虫や植物が、きわめて写実的にガラス器に嵌め込まれていて、興味深く感じたことを思い出します。しかし、ガレがガラス工芸だけでなく陶器や家具の優れた作家であり著名な植物学者であったことは、この美術館で初めて知りました。写真のダイニングは、ナンシー派の複数の工芸家たちが、共同で作りあげたもの。ガレはアートディレクターとして関わったようです。
海草をからめ貝殻を指にはめた手の作品がありました。ダーウィンの進化論が表徴されている、と解説されていました。つまり、海から地上にあがった物体は、はじめは海草に覆われていたが、やがて貝殻などの生物体が付着し、そしてついに、人間特性の最高のものとして手が現れる、と。自然主義者としてのガレの思想が、ガラス器に対象化された作品といえます。 17世紀の版画家ジャック・カロの「小さな道化たち」が、ガレのガラス器に刷り込まれていました。多くのナンシー市民と同様、ガレも郷里の先輩芸術家であるジャック・カロに対して、親近感と尊敬の感情を持っていたものと推測します。
ナンシーのアール・ヌーヴォーにも、ブリュッセルのそれと同様、数多くの建築物がありました。ナンシー観光局の出したリーフレットには、67軒の建物がアール・ヌーボー建築として紹介されています。そのひとつ、マジョレル邸を訪ねました。1901-02に建設された戸建て住宅です。邸宅内部を約1時間かけて案内されるツア
ーに参加しましたが、フランス語はまったくわからず、時々娘の通訳でさわりの部分がちょっとわかった感じ。しかしツアーのお陰で、たっぷりと邸内を見ることができました。 ブリュッセルのオルタ邸の内外装飾は、植物の花、葉、枝、蔓などを素材にしながらも、高い抽象度の模様にデザインさ
れていました。これに対してマジョレル邸の装飾は、総じて写実性が高く、リアルな表現が多かったように思います。たとえば、暖炉のある部屋の場合、家具や暖炉を飾るデザインは小麦に統一されており、その小麦 とネズミの姿は、きわめて写実的でした。エミール・ガレの自然主義、写実主義が、ここにも貫徹している、と思いました。
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