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2013年9月23日 (月)

ローラン・ビネ著、高橋啓訳 『HHhH プラハ,1942年』

 小説『HHhH プラハ,1942年』の原題“HHhH”は、奇妙な題名です。ドイツ語の“Himmelers Hirn heißt Heydrich”(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる) の頭文字をとった略語だと、「訳者あとがき」が教えてくれます。ヒムラーの右腕だったラインハルト・ハイドリヒは、優れた頭脳と指導力によって、ナチスの政策を次々と実行し大きな成果をあげました。この「HHhH」は、ゲーリングがラインハルト・ハイドリヒを賞賛すると同時にヒムラーを嘲笑して語った言葉とされています。

 ハイドリヒは、ヒムラーに次ぐナチス親衛隊の実力者で、国家保安本部の初代長官となって、ドイツと占領地域での政治警察権力を独占的に掌握しました。また「ユダヤ人問題」の「最終解決」の発案者かつ実行責任者としても知られ、「第三帝国で最も危険な男」や「金髪の野獣」「死刑執行人」と呼ばれて怖れられました。戦時中には、ナチス・ドイツによって保護領とされたチェコの総督代理となって、統治にあたりました。

 小説『HHhH』の大半は、膨大な歴史資料を渉猟しながら、4番目のHであるハイドリヒの実像にアプローチします。その記述からこの本は、歴史小説というよりは歴史書と呼ぶのが、ふさわしいのかもしれません。著者はあくまでも、史実に忠実であろうとして、自らの想像力や虚構に対して禁欲的であろうとします。しかし小説の主題が、ハイドリヒその人からハイドリヒの暗殺を実行した二人のチェコ・スロヴァキアの青年クビシュとガブ゙チークに移るにつれて、史実に忠実であろうとする著者は、苦悩します。ロンドンの亡命チェコ政府によって本国の送られたパラシュート部隊員の二人の会話や行動の記録は、ほとんど残されていません。著者は、この本に『類人猿作戦』とのタイトルを付けたかった、と本文中に語っていますが、この類人猿作戦という暗号名を付された作戦の実行者たち、つまりこの小説の主人公たちの歴史的資料がないのです。しかし著者は、1942年5月に実際にプラハであった過去に向き合い、苦悩しながらも「類人猿作戦」の顛末を小説に仕上げていきました。著者は語ります。「どれだけの忘れられたヒーローが〈歴史〉という名の墓地に眠っていることか」。そして、これらの名前が「読者の記憶に侵入するためには、まずは文学に変換しなければならない」。このことが、著者ローラン・ビネが歴史小説『HHhH プラハ,1942年』にかけた決意ではないでしょうか。
 紆余曲折を経ながらも結果的に、ハイドリヒ暗殺は成功します。しかし、作戦実行者とその支援者たちには、無惨な運命が待ち構えていました。

 私は、歴史小説『HHhH プラハ,1942年』を読んで、多くのことを学びました。それは主に、そこで書かれた歴史的事実についての記述でした。そのうち2項目について、要約して引用します。フランス人ブスケのこととチェコの小さな村リディツェ村のこと。

 ブスケについて。
 1942年5月、暗殺事件の直前にハイドリヒはパリを訪問し、ナチス・ドイツの傀儡であるヴィシー政権の警察庁長官ルネ・ブスクと面会しました。ハイドリヒは、パリ東北のドランシー収容所に収監されている無国籍ユダヤ人をドイツの強制収容所に移すように告げると、ブスケはただちに、非占領地域の無国籍ユダヤ人も加えましょう、と応じました。そして1942年7月16日、フランス警察は、パリ在住の非フランス人のユダヤ人を連行し、アウシュヴィッツへ送りました。これが、前回のこのブログでも触れた「ヴェル・ディブ事件」です。ハイドリヒとブスケのラインで、この事件が起こったことを知ります。著者はブスケとこの事件に触れて、「おそらくはフランス民族の歴史でもっともおぞましい行為の責任は彼にあるということだ」ど断じます。
 さらに著者は、『HHhH』の主題から離れて、ブスケの戦後を追います。
 戦後、対独協力者粛清の荒らしを乗り切ったブスケは、支配階級の常として、寛大な処遇を享受しました。ミッテランとは生涯を通して友人であったし、アウシュヴィッツからの生還者であるフランスの政治家・弁護士シモーヌ・ヴェイユとの交友を深めました。彼女はヴィシー政権下のブスケの行動は知りませんでした。著者は、シモーヌ・ヴェイユとの交友に、ブスケの計算を読み取っています。
 しかしブスケは1991年、人道に対する罪の容疑で取り調べを受けます。ミッテランが大統領として初めて、ヴェル・ディブ事件の犠牲者追悼式典に出席した1年前のことです。そして1993年、ブスケはひとりの狂信者によって自宅で撃たれ死亡。ブスケに対する予審の取調べは、そこで閉ざされました。
 過去に向き合い、歴史を記憶しつづけることを使命とする著者ローラン・ビネは、ブスケ暗殺事件について、次のように述べています。
 「僕はブスケのような人間に対して、計り知れない嫌悪と深い軽蔑を感じるものだが、この男を殺害するという愚行と、この行為が歴史家にもたらした喪失と、裁判が続けば必ずや明らかになったであろう事実が永遠の闇に沈んでしまったことを思うとき、この胸は憎しみにあふれる」。そしてさらに、「真実に関心がない連中よりももっとひどいのは、進んで真実に手を加えようとするやからだ」と厳しく指弾します。
 フランスの若手作家による歴史小説『HHhH プラハ,1942年』は、フランスにおけるヴィシー症候群をより深く理解する手掛かりを提供してくれました。

 リディツェ村について。
 ハイドリヒ暗殺事件後のゲシュタポの捜査は、3千人も逮捕した挙句、めぼしい成果もなく行き詰りました。そうした時、男女の情事に関わる意味深な手紙を根拠に、ゲシュタポはプラハ郊外のリディツェ村を徹底的に捜査しました。判明したのは、この風光明媚な小さな村から二人の青年がイギリス海軍に入隊していた、ということだけでした。しかし、ゲシュタポは、ただ血を求めていただけです。暗殺犯はリディツェ村関係者だ、と断定。
 1942年6月10日、ヒトラーの命令により、保安警察がリディツェ村を襲いました。500人近い男女と子供が、教会前の広場に集められ、男は農場の壕へ突き落とされ、女と子供は学校に閉じ込められました。保安警察は、住宅や教会や村施設を荒らしまわり、村は廃墟と化しました。女たち約180人は、ラーフェンスブリュック強制収容所へ送られ、その四分の一がチフスと過労で死亡しました。子供約100人は、「ゲルマン化にふさわしい資質がある」とされた8人(彼らはドイツ人家庭の養子となつた)を除き、ポーランドのヘウムノに送られ毒ガスによって殺されました。15歳~84歳の男たちは、最初は5人づつ壁の前に並んで銃殺され、やがて回転を速くしょうと、10人づつ処刑されました。夜勤から帰宅した9人の労働者も、即刻銃殺されました。
 さらにヒトラーは、象徴的な見せしめにするために、リディツェ村を地図から抹消してしまうように命令しました。墓地を踏みにじり、果樹園を掘り返し、すべての建物に火をつけ、土地には塩をまいて今後何も生えてこないようにしました。リディツェ村のすべての痕跡が、消滅してしまいました。ヒトラーは帝国に刃向かえば、どういう代償を払うことになるかを、ドイツの内外に示したのです。しかし、ヒトラーはそこで重大な過ちを犯した、と著者は指摘します。すなわち、「リディツェ村の殲滅によって、ナチス・ドイツの本姓を全世界にしらしめることになった」のです。
 ヨーロッパの人びとにとって、このチェコのリディツェ村はフランスのオラドゥール村と同じように、過去に向き合い戦争の犠牲者を記憶しつづけるべき象徴的な場所として認識されていることを、歴史小説『HHhH プラハ,1942年』によって教えられました。
 
 

 

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