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2013年9月 9日 (月)

オラドゥール虐殺事件に向き合う独・仏大統領

09z20130905gz0jpg0000300010  ドイツのガウク大統領とフランスのオランド大統領は4日、第二次世界大戦中、ナチス親衛隊による村民虐殺事件のあったフランス中西部のオラドゥール村を訪問しました。両国大統領は、生存者の一人とともに、廃墟となった教会の祭壇に向かい、ともに手を取りあって犠牲者に哀悼の意を表しました。(写真左から、オランド大統領、生存者エブラス氏、ガウク大統領)

  オラドゥール虐殺事件は、ドイツ占領下の1944年6月10日、ナチスの武装親衛隊120名が村に侵入し、村民を集合させたうえ教会や納屋に押し込め、一斉射撃のあと放火し、村民642名(女性245名、子供207名)を虐殺したという戦慄的な事件です。生存者は7名だけでした。連合国軍のノルマンディー上陸の直後にあたり、極度の緊張状態にあったナチス親衛隊が、レジスタントに対する報復措置として、この事件を起こしたといわれています。
 この日のドイツ大統領のオラドゥール村訪問は、1963年締結の独仏友好条約(エリゼ条約)50周年を記念して計画され、これまでドイツ首脳の訪問を拒否していた地元が受け入れて実現したものです。戦後一貫して両国政府と首脳はともに、「歴史を記憶しつづける意志」を堅持しつづけ、「両国の和解」を追求してきたことを象徴する行為だといえます。手を取り合った3人の写真は、1984年のヴェルダンで、フランスのミッテラン大統領とドイツのコール首相が手をつなぎ、二つの世界大戦の犠牲者を追悼した姿を、思い起こさせます。日中両国が、国交回復40周年の記念すべき年に、日本の極右政治家が仕掛け中国の暴徒が呼応して激しく対立したことを、苦々しく思い出さざるを得ません。
 ガウク大統領は、フランス国民に次のように語りかけました。
 「この罪はドイツによってなされた。ドイツ大統領として、それがフランス国民、そして生存者にどのような意味を持つのかを痛切に感じる。あなたたちが、和解への意思をもって共に前進してくれることに、すべてのドイツ人の名において感謝したい。・・・私たちはオラドゥール、そして他の蛮行の地の名を決して忘れない。」
 このドイツ大統領のスピーチに対してフランスのオランド大統領は、次のように答えました。
 「あなたが今日ここにいることこそが、過去のドイツの残酷な行為を直視する現在のドイツの尊厳だ。」(両大統領スピーチは、毎日新聞記事から)
 歴史の真実から目を背け、日本軍国主義の犯した過ちを認めない政治家たちを政権の中枢部に持っている私たちは、独仏両大統領が両国国民と世界の人びとに発信したメッセージを、しっかり記憶にとどめておくべきだと思います。

 さて、フランス国民にとってのオラドゥール虐殺事件は、オランド大統領が「過去のドイツの残酷な行為」と表現したほどには、単純ではなさそうです。この事件は、ドイツ=加害者、フランス=被害者という図式だけでは描ききれない、複雑で深刻なフランス国内の対立問題を内包しています。
 1953年に開かれたボルドー軍事裁判では、オラドゥール虐殺事件に関わった被告21名が、起訴されました。ドイツ人7名、アルザス人14名。いずれも、二線級の指導者と兵士でした。最高責任者だった男は法廷に召喚できず、現場を指揮していた連隊長や中隊長は戦死や行方不明のため、出廷しませんでした。判決は、ドイツ将校1名とアルザス出身の軍曹1名(ナチスに忠誠を誓った志願兵)に死刑、他の被告は5~12年の懲役刑でした。オラドゥール村民は、軽い判決に猛反発しました。他方、被告たちの出身地アルザスの人びとは、13人の有罪判決に対して、激しく抗議しました。こうしてオラドゥール裁判は、フランス国内に深刻な対立を生み出しました。
 では何故、ナチス親衛隊にアルザス人がいたのか、また彼らに対する判決に対して、何故アルザス人が激しく抗議したのか。そのことを理解するためには、第二次世界大戦におけるアルザスの不幸で悲劇的な歴史を知らなければなりません。
 1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけにフランス、イギリスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。1940年6月にはドイツ軍はパリに無血入城しフランスが敗北、そして7月には、ドイツの傀儡政権ヴィシー政権が生まれました。この年、ドイツはアルザスとロレーヌを第三帝国に併合します。
 第三帝国併合の中身は、アルザスとロレーヌのすべてをドイツ化・ナチス化することでした。民法・刑法・商法などはドイツ法に取って代わられ、姓名や地名はドイツ語化され、フランス語の使用が禁止されました。また、アルザスやロレーヌの人びとのヒットラー青年団などのナチス組織への加入が強制され、20歳前後の若者には、労働奉仕が義務づけられました。そして、ソ連戦線が窮迫するにつれて多数の兵士が必要となり、ナチス・ドイツは1942年8月、占領下の他国民の強制徴募を禁止したハーグ条約に違反して、兵士の強制徴募を始めました。このとき、ヴィシー政権は一言も発しなかった、とされています。このナチスによる強制徴募に対して、アルザスとロレーヌの若者たちは、故郷から逃亡してフランスへ行こうとしました。その数は、3ヶ月間で12千人に達しました。しかし、逃亡に失敗し銃殺刑に処せられた若者が続出、また逃亡した若者の家族たちは、財産没収のうえドイツ国内の強制収容所送りとなりました。こうした過酷な現実に直面し、自らの意志に反して「心ならずも(マルグレ=ヌー)」応召したアルザスとロレーヌの若者たちは、13万人にのぼると推定されています。オラドゥール村の虐殺事件に関わったアルザスの兵士13名は、こうした「マルグレ=ヌー」の兵士たちだったのです。彼らが、上官の命令を拒否することは、銃殺刑か強制収容所送りを意味しました。彼らは、判決の後すぐに恩赦を与えられ、ひそかに監獄から釈放されました。

 (備考:ウイキペディアの「オラドゥール=シュル=グラヌ」の項に、アルザス人被告について次のような記述があります。「(アルザス人被告たちは)自分たちは意志に反してSSに徴集されたと主張した。だが、SSの記録によればそのような強制徴集の事実はなく、ナチスに対し共感をもっていた彼らが自発的に参加した可能性が高い」。国際条約に公然と違反して行われた「強制徴集」の加害者であるSSの記録によって、「強制徴集」の事実はなかったとするのは、歴史修正主義のいつもの手口です。ウィキペディアに書き直しを求めたい。)

 以前このブログで紹介した『ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)』(明石書店)は、このオラドゥール虐殺事件の記憶を、ヴェルディブ事件(1942年7月16日、フランス警察はパリ在住の外国出身ユダヤ人を連行し、アウシュヴィッツへ送った)の記憶とともに「ヴィシー症候群」として括り、フランスの戦中・戦後の真実に迫ります。共通教科書は、「国を挙げての抵抗者フランスという神話」という項目のなかで、戦後のフランスについて、「レジスタンスから生まれた政治勢力にとって、終戦後の最優先事項は、国民の一体性とフランスの威信の再建であった。・・・フランス全体を抵抗者として英雄視することで、占領時代の記憶や戦争捕虜の記憶、人種的理由に基づいて強制収容所に抑留された人々の記憶はその陰に覆い隠されてしまった」と述べます。しかし、戦後の裁判やユダヤ人の告発によってオラドゥール虐殺事件やヴェルディブ事件がフランス国民の前にあきらかとなり、「完全に癒えていなかった国民の記憶の傷を再び開き、『ヴィシー症候群』が姿を現してきた。」(「ヴィシー症候群」には、次のような注釈が付けられています。「ヴィシー体制の記憶のゆえに政治的・社会的・文化的な国内対立が明るみに出た一連の兆候や言動をさす言葉。」)
 共通教科書は、「ヴィシー症候群」としてのフランスにおける国内対立を、政府と国民がどのように克服してきたかを、ミッテランやシラクなどの歴代大統領の言動を通して、明らかにします。1992年7月16日、ミッテランは大統領として初めて、ヴェルディ事件犠牲者追悼式に出席し、シラク大統領は2000年、7月16日を「フランス国家による人種的・反ユダヤ的犯罪」追悼記念日とする法律を成立させました。まさに、式典と記念の日や場は、「戦争中になされた暴虐が繰り返されることがないように、未来の世代に過去を記憶する義務を訴える場(日)」となったのです。あくまでも真摯に、歴史的事実に向き合うことによって未来を展望し、そのなかで国内対立を克服していこうとしているのです。
 このたびのドイツのガウク大統領とフランスのオランド大統領のオラドゥール村訪問と生存者を含めた3人が手を取りあって犠牲者を追悼する姿は、まさに「未来の世代に過去を記憶する義務を訴える場」としての歴史的パフォーマンスといえます。いま、私たち日本人に問われている最大のテーマのひとつが、ここにあるといえます。日本国首相と中国国家主席が手を携えて、南京大虐殺犠牲者慰霊塔の前で、哀悼の意を表する日が一日も早く到来することを祈ります。 

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コメント

こんにちは。初めまして。私ごとにて恐縮ですが、ここ3ヶ月、病気療養中で、あまりの退屈にTUTAYAで「名探偵ポワロ」を借りて来まして、ドップリ浸かっています。
「スタイルズ荘の怪事件」の冒頭に出てきた「 1917年 フランドル攻勢 ベルギー人イギリスへ亡命・・」などというのを検索していましたら あなた様のここにいきつきました。フランドル地方の穏やかな田園風景や、地味ながらもどっしりと頑丈な田舎家など、イギリスやフランスの絵はがき的な街中の喧騒とはまた違った郷愁を誘う風景にとても魅力を感じました。私は今同じ姿勢を長く続けるのは少々つらいですので、このブログをお気に入りにして、毎日少しずつ、楽しみに拝見したいと存じます。(下京区在住、還暦前後の女性です)

The way you write make it especially easy to read. And the theme you use, wow. This is a really good combination. And I am wondering what is the name of the template you use?

すてきな投稿です。ありがとう。先日の報道ステーションでも、ドイツとフランスの歴史共有、相互理解の取り組みやってました。

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