『日本軍に棄てられた少女たち-インドネシアの慰安婦悲話』
10月14日の朝日新聞は、駐インドネシア公使だった高須幸雄・国連事務次長が、1993年8月、ジャワ島出身の旧日本軍の慰安婦らの苦難を記録したインドネシア人作家の著作が発行されれば両国関係に影響が出る、との懸念をインドネシア側に伝えていた、と報じました。情報公開された外交文書などから分かったもの。記者は、「日本政府が当時、韓国で沸騰した慰安婦問題が東南アジアへ広がるのを防ぐ外交を進めた」ことが明らかになったとし、一方、高須氏の行動が「当時のスハルト独裁政権の言論弾圧に加担したと受け取られかねない」と指摘しています。
この作家の名前は、ノーベル賞候補だったプラムディア・アナンタ・トゥール(1925~2006年)。プラムディアは、1965年の9・30事件(インドネシア共産党クーデター未遂事件)に連座したとして、1969年から79年までの10年間、ジャワ島から1,400㎞離れた政治犯の流刑地ブル島に送られました。プラムディアと仲間たちは、未開の地を開墾しながら自給自足の生活を切り開いていきますが、その間に、この島に住む「日本軍に棄てられた少女たち」のことを知りました。彼らは、ブル島に住む関係者に取材し、深い山中に住む彼女たちに直接会いにいって、「日本軍に棄てられた少女たち」に関する貴重なドキュメントを作成しました。その活動が、1993年7月26日付け毎日新聞に報道され、その記事をもとに高須幸雄氏の外交-慰安婦記録の出版に懸念の伝達-があったのです。
このドキュメンタリーは、プラムディアによって編集されたうえ、2001年に出版されました。スハルト政権崩壊後のことです。そして04年、『日本軍に棄てられた少女たち-インドネシアの慰安婦悲話』(山田道隆訳、コモンズ刊)として日本語訳が出版されました。早速、発行所コモンズから直接購入し、読みました(ネット通販各社は「在庫なし」でした)。
政治犯としてブル島に流されて3年たった1972年、仲間の一人が香油材料の植物を探していて、山中で地元の女性と出会いました。美人の面影を残し、衣服は古いもののきちんとしており、地元民特有の皮膚病はなく、白髪混じりの50歳台の女性でした。
「どこにいくのか」の問いに、原住民の言葉でなく丁寧なインドネシア語の返答に驚きました。出身を問うと「中ジャワ」と答えるが、詳しい出身地は言いません。やがて、1944年に勉強のため日本へ向うはずが、日本軍によってこの島に連れてこられた、と語りました。そして、家族に合わせる顔がないという理由で、ジャワへ戻るつもりも戻れる希望もない、といって去っていきました。「日本軍に棄てられた少女」との最初の出会いでした。
「勉強のために日本へ」という話は、プラムディア自身も戦時中に聞いていました。それはジャワ島を占領していた日本軍が、将来のインドネシア独立に際し有能な人材を確保するために、インドネシアの若い男女生徒たちを東京や昭南島(シンガポール)へ留学させる、というものでした。例えば、西ジャワの理容師は、日本軍の約束を信じて、美人だった娘の留学に同意しましたが、日本兵に連れて行かれた娘はその後、行方知れずとなりました。また、娘といっしょに村を出た父親は、ロームシャとしてビルマに向かい、娘は東京へ向ったはずでした。日本軍の降伏後、父親は自力で帰郷しましたが、娘は行方不明のままでした。留学という「甘い約束」を断り続けた両親の場合、日本軍から「テンノウヘイカに楯突くのか」と脅されて、泣く泣く「留学」に同意し、14歳の娘と離れ離れとなりました。こうして集められた13歳から17歳の少女たちは、日本軍の慰安所に連れて行かれ、「性の奴隷」となりました。
著者は、日本軍による留学を装った少女たちの拉致について、次のように要約しています。
第一、日本軍政監部が約束した東京や昭南島への留学話は官報など公式な形では発表されず、悪行を追及されないよう、日本軍は意図的に「犯行」の跡を消していた。
第二、少女たちが故郷そして親元を離れ、危険を伴う航海を決意したのは、自分からそう望んだのでは決してなく、軍政の脅しを恐れた親がそうさせたためである。
第三、日本軍が成人前の少女を対象としたのは、兵士たちの欲望を満たすためのほか、少女であれば反抗する力もないと考えたからだった。
ブル島に着いた少女たちは、人里はなれた山中の地下陣地に収容され、日本軍によって「性の奴隷」となりました。「少女たちはこの陣地内で、経験のないまま、日本兵の野蛮さのなかに投げこまれたのです。一人として少女たちを救える者はいませんでした。少女たちはここで、尊厳、理想、自尊心、外部との接触、礼節、文化など、すべてを失いました。持てるものすべてを強奪され尽くしてしまったのです。」
著者は、日本兵による少女たちへの仕打ちについてはあまり触れていませんが、その数少ない記述が、この部分です。「性の奴隷」となった少女たちについては、「すべてを強奪され尽くした」と表現するほか最早、言葉はなかったのだと想像します。
少女たちは、日本軍に「留学」という甘言によって拉致され、性の奴隷となりました。これが、少女たちにとっての最初の悲劇でした。そして、日本軍の敗北は、あらたな犠牲を少女たちにもたらしました。降伏した日本軍は、少女たちを地下陣地に置き去りにしたまま、姿を消しました。日本の軍人たちは、少女たちを未開の異郷の地に棄てたまま、遁走したのです。食べるすべのない少女たちは、自らの力で生きる道を探さざるを得ない運命に投げ出されました。日本軍に棄てられた少女たちに、インドネシア政府からの救いの手が、差し延べられなかったのでしょうか。日本降伏直後は、インドネシアはオランダからの独立戦争の真っ最中にあり、主権回復後も政争が激しかったこともあり、日本軍の加害調査は一切行われませんでした。しかもインドネシア政府の怠慢もあって、日本との戦後賠償問題協議で少女たちの問題は言及されませんでした。少女たちは、故国からも棄てられたのです。
日本軍に棄てられた少女たちは、その後どうなったのでしょうか。本書の半分ほどのページをさいて足跡を追った「ムリヤティ」という名前の女性について記します。流刑地での著者の仲間による山の民の祭司への取材およびブル島奥地への踏査記録によるものです。
ムリヤティは、中ジャワ州のクラテンという都市から来た、まだ小さな泣き虫の少女でした。彼女は、ジャワ島から来た警官の妻が面倒をみていました。日本軍降伏後、日本軍の命令により少女たちは石造りの家に残っていましたが、しばらくして、一人また一人と出て行きました。あるときムリヤティは、ロームシャだった山の民に連れて行かれ、暴れ者のラトゥン村長の最初の妻となりました。この男は、近隣の女性を略奪し、6人の妻持ちとなりました。島では、女性は財産であり、売買と略奪の対象でした。こうした夫に対して、ムリヤティは逆らい反抗しました。夫に逆らうことは、ブル島のアルフル人の歴史でははじめてのこと。ムリヤティは、一部の村人から尊敬されるようになりました。彼女はその後、他の家族とともに村を離れ、新しい村をつくりました。
山中での調査旅行で捜し当てたムリヤティは、前がはだけしわくちゃの上着を着た、視力の衰えた寡黙な老女でした。老女は、両手を震わせ何度か頭を振り、目から涙があふれ出ました。立ち上がった老女は足元をふらつかせ、手探りしながら歩き出し、夜の闇のなかへと姿を消しました。著者は、老女の境遇と心中を、つぎのように記しています。
「老女はブル島の風習と掟、誓いにしばられていました。老いの日を迎え、残されたのは死という現実だけだというのに、彼女は自ら立てた誓いに従ったのです。それは、自分自身を、出自を、文化を、そして身につけた教養をすべて否定してしまう誓い。その心根ににあったのは、「いまさら家族の元に戻るのは恥ずかしい」という思いです。」
著者は、この老女にたいして心のなかで涙を流すことぐらいしかできない、という無力さをかみ締めながら、次のように述懐します。
「インドネシアの少女たちをこのようにつらい目に遭わせた当の日本人たちは、とっくのむかしに帰国し、いまは家族に囲まれ、幸せな日々を送っているでしょう。」
以上が、高須氏が出版に懸念を示したという「記録」の概要です。著者のプラムディアは、「慰安婦問題」を声高に追及するのではなく、ただ「日本軍に棄てられた少女たち」のありのままの姿を、淡々と記述するばかりです。日本軍によって拉致され、性の奴隷となり、そして棄てられたインドネシアの少女たちの記録が、本人と関係者からの聞き書きにもとづくオーラル・ヒストリーの手法によって、歴史に名をとどめることになりました。原書の出版社は、その出版意図を、「日本軍の犯した行為は、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺やインドネシア共産党・・弾圧事件と同様、20世紀において人類に対するもっとも大きな悲劇の一つとする見方があるから」と語りました。私たちは、インドネシアと世界には「従軍慰安婦」についてこうした見方があることを認識すべきだと思います。朝日新聞の報じた高須幸雄氏の言論弾圧に加担する行為は、「日本軍に棄てられた少女たち」をふたたび、歴史の闇のなかに棄て去ろうとする黒い企みといわざるを得ません。
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