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2013年11月 8日 (金)

ジョン・W・ダワー著『忘却のしかた 記憶のしかた』を読む

 今年4月、安倍首相は、日本の侵略を認め公式に謝罪した「村山談話」をめぐる国会答弁で、「侵略の定義は国際的に定まっていない」と述べ、内外のメディアから厳しい批判を受けました。そして5月には、大阪市の橋下市長が「慰安婦制度は必要だった」と発言、再び世界のメディアは、日本の有力政治家による歴史の歪曲と居直りに、驚きと警告の声を発しました。領土問題をきっかけに冷え込んでしまった韓国や中国との関係は、日本の政治家の歴史認識にかかわる発言によってさらに、遠ざかってしまいました。

 第二次世界大戦で同盟関係にあった日本とドイツは、敗戦後、めざましい経済復興をはたし、ともに世界有数の経済大国になりました。そしてドイツは戦後一貫して、ナチスによる戦争犯罪と向き合い、近隣諸国への謝罪による和解の道を模索しつづけ、ついにEU(ヨーロッパ共同体)の中核を担うという名誉ある地位を築きました。しかし日本は、政府による公式謝罪にかかわらず、「愛国」を信条とする政治家たちの歴史を歪曲する発言や行為によって、いまだ韓国や中国との真の和解にいたりません。今回の安倍首相と橋下市長の「愛国的発言」は、ふたたびみたび、日本を不名誉な国へ導くことになりました。こうした状況を背景に、今年の8月、日本人の戦争と記憶について語ったジョン・W・ダワー著『忘却のしかた、記憶のしかた 日本・アメリカ・戦争』(岩波書店 刊)が刊行されました。

 著者のダワー氏は、占領下の日本をえがいた『敗北を抱きしめて』(ピューリッツァー賞受賞)でよく知られた、日本近現代史の第一人者のアメリカ人歴史学者です。本書は、著者の過去20年近くの評論や論文11編を集めたもので、ダワー歴史学の入門書(訳者あとがき)となっています。所収の評論や論文では、日本近現代史にかかわる広汎で刺激的な論議を提供していますが、ここでは、直接「日本の戦争と記憶」そのものを扱った第4章を中心に紹介します。

 まず著者は、日本語版の冒頭「日本の読者へ」のなかで、おそらく安倍・橋下発言をも念頭に、次のようなメッセージを私たちにおくっています。
 「こうした類の愛国的な偽りの歴史には、ひねくれた矛盾がある。公に宣言する目標は「国家への愛」をうながすことでありながら、一歩日本の外に出てみれば、そうした内むきのナショナリズムが日本に莫大な損失をおよぼしてきたことは歴然としている。それは、戦争そのものによる害とはちがって、日本の戦後のイメージに、消えない汚点を残すのである。・・・
 日本が1952年に独立を回復してから60年が過ぎたが、その日本がいまも、近い過去と折りあいをつけて、隣人や盟友から全信頼をかち得ることができないことは、深く悲しむほかない。」
 日本をよく知り、日本の近現代史を世界に発信してきた親日家 ジョン・W・ダワー氏の悲哀のこもったメッセージです。ひとりでも多くの日本人に、是非、耳を傾けてほしい。
 

 さて、第4章「愛されない能力」は、日本の戦争記憶そのものが題材となっています。
 仏文学者・渡邊一夫の『敗戦日記』からとられた「愛されない能力」という表題は、渡邊が第二次世界大戦における日独両国を指していった言葉ですが、著者は、戦後ドイツが「ナチスの過去と向きあうことを称えられてきた」が、対照的に日本は、「天皇の名でおこなった戦争の汚点を消し去ろうとしているという酷評をあびてきた」と指摘し、いまだ日本が、「愛されない能力」をもちつづけていることを、強く示唆します。では何故、またどのように、日本は「愛されない能力」を持ちつづけてきたのか。著者は、戦争と記憶に関する日本人の五つの思考パターンから、そのことを読み解いていきます。

 1.否定
 アジア太平洋戦争における日本の侵略と戦争犯罪を否定する人々の思考。
 古風な愛国主義者は、この戦争はABCD包囲網による脅威に対する正当な自衛行為であり、全アジアを欧米から解放し且つ防共の防波堤を築くための「聖戦」であった、と主張します。彼らはまた、南京大虐殺、戦争捕虜虐待、「慰安婦」搾取などの日本軍による残虐行為を、軽視あるいは否定します。
 歴史修正主義者は、抑圧(国内)と侵略(対外)をもたらした日本帝国の構造を解明した「近代日本史のマルクス主義分析」を否定し、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判を「勝者の裁き」だとして否認しました。著者の主な批判対象は、後者の歴史修正主義者に向かいます。

 2.道徳的(あるいは不道徳的)等価性の喚起
 修正主義者は、パル判事の東京裁判批判(①「平和に対する罪」は事後法である、②西洋植民地主義からの解放、という被告の主張への理解)を、日本人の戦争犯罪と侵略行為を隠す煙幕として利用し、また、ナチスの残虐行為とアメリカの原爆使用を対置したバル判事の示唆を、「他者の犯罪が自己の罪を免れさせる」とでもいうように、不道徳を歴史的に抹消しました。 つまり「日本人だけが悪いのではない」という論法。著者はこれを、「道徳的(あるいは不道徳的)等価性の喚起」と呼び、修正主義者の主張の特徴の一つだとしています。(橋下市長の「従軍慰安婦」についての発言が、まさにこの論法を使ったもの。)

 3.被害者意識
 敗北の記憶と空襲・原爆による破壊の記憶が一対となって、日本人は「被害者」であり「犠牲者」であるという意識をはぐくみました。戦争責任にたいする日本人の意識は、直面した日常生活の困難さと冷戦によって、鈍くなっていきました。アメリカにとっては、日本の残虐行為よりも共産主義の危険性を強調するほうが目的にかなっていた、と著者は指摘します。

 4.日米二国間における日本の戦争犯罪の汚点の除去
 
アメリカは、功利的な政治上の理由から、日本の戦争犯罪のある側面を隠蔽しました。それは、①天皇の責任、②七三一部隊の人体実験、③「従軍慰安婦」の奴隷労働、④中国での化学戦、⑤戦争捕虜の奴隷労働などに及びました。
 とりわけ著者は、日米両国による天皇の戦争責任の隠蔽が、日本人が真剣に戦争責任を究明することを妨害した、と厳しく断じます。
 「もし彼が、即位した1926年から戦争終結の1945年までのあいだに起きたどんな恐怖と災厄にも責任がないと思われるなら、なぜ普通の日本人が、みずからの責任をとると考える必要があるのだろうか。裕仁天皇は、戦後の日本の無責任、無答責の抜きんでた象徴、助長者となった。」
 また、冷戦下でのアメリカの利益が、日本の戦争犯罪と戦争責任を隠蔽するうえで、決定的な影響力をもった、と指摘します。つまり、安保条約のもとでの日本の再軍備を「日本の民衆に説得しょうとするなら、いまだに民衆の意識に残る、過去の軍国主義と「侵略」にたいする決定的な認識を追いはらうことが、必要でありつづけるからだ。」

 5.罪と責任を認める民衆の議論
 
著者は、上記の四つの思考パターンのなかで、日本人が戦争犯罪と戦争責任を隠蔽し忘却してきた要因と背景を、描きだしました。一方著者は、日本人がいまだに「愛国心」に猜疑心を持っていることに着目し、そのことに日本人の被害者意識が未来に向けた建設的な方向性を持っていた、と確信します。つまり、空襲や原爆の犠牲ばかりではなく、戦争それ自体による犠牲、軍国主義者の愚行と民衆の無知によって犠牲となったという意識が、日本人の内面から噴きあげひろく受け入れられた。そして、罪と責任を認める民衆の議論が、次のような未来像を描いてきた、と指摘します。
 「日本は将来、戦争に巻きこまれるようになってはならない。ふたたび欺かれないようにすることが、理性的で開かれた社会をつくることになる。「平和と民主主義」にむけてそうした社会をつくることは、たんに国家の誇りと国際社会の尊敬をふたたび勝ちえるばかりではない。それはまた、生者が死者にたいし、彼らがむだに非業の死をとげたのではないこと保証する、想像しえる唯一の道なのだ。」
 これが、日本の民衆の中にあった戦後の出発点の一つでした。しかし、きびしい日常生活の圧迫と深まる冷戦のなか、「きわめて真摯だった初期の批判と自己批判は薄れて」いきました。それでも、戦争の記憶と責任の問題を追いつづける潮流は、憲法、教科書、自衛隊、安保、反核等々の論争と運動のなかで、引きつがれていきます。ベトナム反戦運動は、日本人の「犠牲者」「加害者」の二面性を自覚させ、日中国交回復は、日本人の戦争犯罪の記憶をよみがえらせ、そして裕仁天皇の死は、日本人の戦争責任問題の議論に弾みをつけることになった、と著者は振りかえります。
 では、一般民衆の意識はどうだったのか。著者はこの問いに答えて、「調査された日本人の80%は、政府は『日本が侵略、植民地化した国々の人に、十分な償いをしていない』ことに同意した」という1994年の世論調査の結果を引用し、指導者よりも民衆のほうが覚悟ができている、と断じました。一般民衆は、「愛国心のない」感受性を発揮したのです。まさにこのことが、「この10年、ネオ・ナショナリズムの新たな興隆に自暴自棄の激しさをあたえた」のでした。ダワーは、最後に次の文章を記し、第4章を終えました。
 「こうしたことすべてには、時代をつうじてくりかえす不吉な循環性があり、部外者にとっては、『愛されない能力』という渡邊のかつての考えを、意固地になってただ強めようとしているようにみえるのである。」 

 今日の朝日新聞は、7日にソウルで開かれた日中韓3ヶ国の外務当局者会談の模様を、「こわばる日中韓 握手なし 首脳会談へ展望開けず」と伝えました。領土と歴史認識の問題をめぐって冷え込んだ日本と韓国・中国の関係を打開しょうとして開かれた会談でした。日本のリーダーたちの歴史認識のどこが問題なのか。なぜ、韓国や中国の人びとは、執拗にこのことを問題にするのか。こうした疑問に対し、本書は多くのことを教えてくれます。ひとりでも多くの方に読んでほしい、と思います。

 

 

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