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2014年3月10日 (月)

「写真展・飯舘村」が訴えるもの

 先週末の3/7~9の3日間、3・11東日本大震災・福島第一原発事故3周年を記念して、飯舘村の酪農家・長谷川健一さん撮影の「写真展・飯舘村」を開催しました。地元の脱原発グループが主催し、高崎市教育委員会の後援を得て、町の文化会館ロビーで開催したもの。微力ですが、「フクシマを忘れません!」「原発再稼動を許しません!」と訴えている私たちは、長谷川さんの写真に込められた飯舘村村民の深い悲しみと怒りに向き合うために、この写真展を企画しました。

 写Img_1822_2真展は、映画会や講演会とくらべてやや地味な感じがして、どれくらいの人に見にきてもらえるのか心配でした。そこで、ニュースとチラシ400枚の手配り、新聞社のイベント欄への掲載(上毛、東京、毎日、朝日の各紙)、そして町の全町内会(800余)でのチラシ回覧など、できるかぎり宣伝に努めました。しかし、前日まで電話での問い合せはまったくなく、不安感がつのります。これまでの映画会や講演会ではいつも、数件の問い合わせがあったのです。
  初日の金曜日は、午前中を準備にあて、午後12時からの開場を予定していましたが、10時過ぎに早々と、上毛新聞で知ったという桐生市の男性が、カメラ片手にやってきました。その後も、数人の人びとがやってきては、まだなんだといった表情で去っていきました。そこで準備を急ぎ、昼前に実質的に開場しました。

Img_1811  会場に入って最初の展示物として、朝日新聞の3・11翌日から10日分の1面記事を掲示しました。東日本大震災と福島原発事故をあらためて思い起こすための工夫でした。原発事故の許しがたい罪悪の一つは、大津波によって失われた2万人近くの人びとの鎮魂のための静かな祈りの時を、日本社会から奪ったことでした。掲示した10日間の新聞を読みかえしてみて、あらためてそのことを痛感します。静かな祈りが激しい怒りにとって変わりました。

  午後Img_1783になって、来場者が徐々に増えてきました。写真とその説明を食い入るように見る人、メモを取りながらゆっくり歩を進める人、2人連れの女性は、声低く感想を述べ合っています。この震災で7人の身内を亡くしたという福島県浜通り出身の老夫婦は、次のような感想文を書き残してくださいました。
 「一周忌、三年忌には、身内を忍んで帰省し、帰りには飯舘村を三度通って来ました。死と化した村の姿には、只々目をふせるばかりです。またこの展示品を見ては涙しました。「ありがとう、長谷川さん」。決して忘れImg_1819る事の出来ない風景ばかりです。」
 伊達市内の仮設住宅で避難生活を送る長谷川さんと、故郷から遠く離れて高崎市郊外でひっそりと暮らす老夫婦の間には、共鳴し合う暖かい心のつながりを感じました。

 2日目は、隣りの公民館で社会福祉協議会によるバザーが催されていたこともあって、来場者は一気に増えました。多くImg_1812_3の人びとが、写真を一枚一枚、至極丁寧に見つめています。会場にはソファーをセットし、熱いほうじ茶を用意しました。少しでも滞在時間を長くして、飯舘村に向き合っていただくためでした。机には紙と鉛筆を置いておき、感想文を自由に書いてもらいました。感想文のいくつかを紹介します。

 「写真をみて、心から涙がでてしまいました。もしも高崎地域全体に同じことが起きたら、どうだろうか。体にふるえが来た。」(榛名町から来た男性)
 「家も、家族も、仕事も、普通の生活も、すべて失うという体験に、心を寄せ続けていきたいと思います。」
 「一番印象に残ったのは、黒板に書かれた遺書の写真だ。心からの言葉が、苦しみが、心にひどく重く響いた。この写真展は、絶対に忘れない。」(何も知らなかった16歳より)  
 「学校時代、毎年登山した赤城の大沼・小沼も、すっかり汚染されImg_1808_2てしまいました。ワカサギの味が忘れられません。」(89歳女性)
 「先の見えない暮らしは、どんな毎日なのでしょうか? 夢もない日々は、本当に辛いと思います。」
 「福島のおかれている現状は、依然として復興や除染が進まず、放射線の恐怖と国の誠意のない対応への怒りを考えると、憤りを感じます。」
 「3年たった今、国は何をしているのでしょうか? 一日も早く、仮設住宅から自分の家で、家族みんなと暮らせるようになれることを願っています。」
 「原発がなければ、もうとっくに復興ができているのに!災害を受けていない私さえもいら立ちを覚えるのだから、被災された人達のことを思うと、胸が詰まります。」
 こうした感想文が、22人の方から寄せられました。

Img_1828_3 
 最終日の日曜の昼前、幼児をともなった若い母親が来場しました。中・高齢者が圧倒的に多かったなかで、数少ない若者でした。受付で、私は飯舘村から高崎市にきた者です、と自己紹介しました。7年前、結婚のため当地に来たとのこと。長谷川さんの息子さんの写真を指差して、私と同級生です、と静かに語りました。被写体となった飯舘村の人びとは、ほとんど知っている、ともいいました。幼い娘に、写真に写った知人・友人を指差して、○○さんだよ、△△ちゃんだよ、と教えました。そして、そっと目の涙をぬぐいました。遠地にあって苦悩する故郷のことをひとに話せない、また話しても通じないもどかしい心のうちを、あかしました。そのことが、「写真展・飯舘村」を開催した私たちへの感謝の気持であったようです。

011 こうして私たちの写真展は、過ぎていきました。3日間の来場者数は130人余となり、予想を大幅に超えました。すこし気分をよくしました。フクシマの風化が懸念されるなか、まだまだ被災地に関心を寄せ心を砕いている市民が多くいることに、心強さを感じました。そして、展示会の途中に会場を抜け出して参加した高崎城址公園の脱原発集会では、参加者が会場いっぱいにあふれており、気分をさらに良くしました。「原発の再稼働を許さないぞー!」と思いっきり、シュプレヒコールを繰り返しました。




 














 

  

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