山田慶兒著『海路としての〈尖閣諸島〉』
東北アジアの国際政治に、緊迫した空気と暗雲が漂っています。北朝鮮の金正恩とともに日本の安倍晋三が、その仕掛け人として登場。問題の焦点は、「尖閣」・「竹島」の領有権、日本政府首脳の歴史修正主義的な歴史認識、そして安倍首相の靖国神社参拝。安倍に対する厳しい批判は、中国・韓国にとどまらず、アメリカ、EU、ロシアほか圧倒的多数の国々に、広がっています。私たちはいま、国際的な孤立のなか日々、耐えがたい息苦しさを感じつづけています。
2年前の秋、「尖閣」と「竹島」の領有権をめぐる日中・日韓間の対立を憂慮した市民有志が、「『領土問題』の悪循環を止めよう!」とのアピールを発表しました。このアピールは、国内外で大きな反響を呼び、とりわけ中国・台湾・韓国の心ある市民の胸を打ち、賛同の輪を広げました。
アピールは、これらの「領土」問題の背景に、日本のアジア侵略の「歴史」問題があることに注意を喚起したうえで、「領土」に関しては、「協議」と「対話」を行なう以外に方法はない、と指摘します。また、争いのある「領土」周辺の資源については、共同開発・共同利用以外にはありえない。主権をめぐって衝突するのではなく、資源を分かち合い、利益を共有するための対話、協議をすべきである、と力強く訴えました。
私は、このアピールの主張に全面的に賛同し、とりわけ、アピールのなかの第7項目に書かれた以下の文章に強く共感し、ネットでの署名に応じました。
「尖閣諸島とその周辺海域は、古来、台湾と沖縄など周辺漁民が漁をし、交流してきた生活の場であり、生産の海である。台湾と沖縄の漁民たちは、尖閣諸島が国家間の争いの焦点になることを望んでいない。私たちは、これら生活者の声を尊重すべきである。」
昨年の夏、フランス東部のドイツとの国境地帯、アルザスを訪ねました。この地は、数百年にわたり、独仏両国間での領土・領有権の係争地であったのですが、第二次世界大戦後のドイツ・フランス両国の歴史的和解を基礎としたEUによる国家統合の試みが、「国境」「領土」「領有権」の概念と実態を、見事なまでに変容させてしまいました。私が訪問時に渡ったストラスブール市(フランス)とケール市(ドイツ)を結ぶ歩行者・自転車専用のライン河に架かる吊橋は、両市の市民たちが日々、通勤や通学に使い、散歩やサイクリングを楽しみ、ちょっとした用足しと買い物に渡っていく生活の場として機能していました。尖閣諸島とその周辺海域が、こうしたライン河流域のように、日中両国の漁民が交流し共通の生活の場となっていくことを、心から願いました。
先の市民アピールに署名した後、尖閣諸島とその周辺海域の「生活者の声」を聞くことができないかと思いつつ1年半たった今年2月、山田慶兒著『海路としての〈尖閣諸島〉―航海技術史上の洋上風景』に出会いました。そこには、歴史に刻印された「生活者の声」が、記されていました。その生活者とは、琉球と中国(明・清)の船乗りたちです。両国の船乗りたちは、どのような関係だったのか、また彼らにとって、尖閣諸島はどんな存在だったのか。
中国科学技術史家の山田慶兒さんは、中国・明の鄭和の航海技術への関心から、明や清の時代の航海者たちの書き残した航海指針書を、読み解いていきます。明の鄭和は、1405年~1432年の間7回にわたり、東南アジアからインド・アラビア半島・東アフリカへと航海し、朝貢関係の強化と朝貢貿易の振興にあたったとされます。ヴァスコ・ダ・ガマのインド到着の一世紀前の出来事。その鄭和の航海に参加した船乗りの書き残した航海指針書『順風相送』にはじめて、尖閣諸島の三つの島嶼―釣魚嶼(日本名:魚釣島)・黄尾嶼(久場島)・赤尾嶼(大正島)―が記録されました。
著者の山田氏は、鄭和の航海技術の歴史的な意義を、次のように評価します。
「鄭和の船隊は中国の船乗りたちにとって、遠洋航海の技術を学ぶ最良の学校だった。なぜなら、そこでは東洋と西洋の航海技術が接合ないし融合して、アラビア海・インド洋と南シナ海・東シナ海を結ぶ国際航路の航海者たちが共有する、天文航法と羅針盤航法の統合システムが運用されていたからである。」
こうした国際航路の航海者たちのなかに、福建-琉球航路を繰り返し往復していた琉球の船乗りたちも含まれていました。琉球は1372年以降毎年のように、福琉航路を通って進貢使を、中国へ派遣していたのです。清国へ何度か行ったことのある進貢副使・鄭順則は、福琉航路に関する航海指針書を含む文書を集め『指南広義』(1708年)を作成しました。そのなかに、清の使節(冊封使)の乗った船の舵手が、自分の航路指針書を琉球の同僚に提供し、「この巻を用い、注意して細かく調べ、ちゃんと自由に使いこなせるようにしたらいいでしょう」と云ったというエピソードが、記されています。中国と琉球の船乗りたちは、つねに待ち受けている共通の危険に対応するために、航海の技術と指針を共有し、強く結ばれていました。
中国と琉球の船乗りたちに共有されていた航海指針書は、航海技術・島嶼・針路の3要素からできており、、そのひとつ島嶼は、船の現在位置を確認するための基準-航路上にある航行の道標-とされていました。『指南広義』に記載された福琉航路(往路)には、島嶼は次のように記されています。
「福州から琉球へ行くには、東沙山の外で船出し、・・・、花瓶嶼並びに彭家山の北を過(よぎ)り、・・・、釣魚台へ行き、北を過り、前面の黄麻嶼の北を過り、・・・、黄尾嶼の北を過ぎり、・・・、赤尾嶼へ行き、・・・、姑米山の北を過り、・・・琉球那覇港に入れば、大吉」
省略した「・・・」はすべて、進路と距離の記述。「花瓶嶼並びに彭家山」は、台湾・基隆のすぐ北側にある小さな島嶼、「釣魚台」「黄尾嶼」「赤尾嶼」はすでに述べた尖閣諸島の島嶼、「姑米山」は久米島のこと。『指南広義』に記された福琉航路の標準航路は、明や清の航海指針書と同様に、〈福州―台湾北部―尖閣諸島―久米島―琉球〉となっています。著者は指摘します。「福建のどの港から出帆しょうと、すべての航路が釣魚嶼に集中し、そこで合流して一路線となり、赤尾嶼を経て久米島へ向かっている・・・。福琉航路の道標として釣魚嶼は特別の位置を占めていた」。尖閣諸島は、琉球と中国の船乗りにとって、海の危険から身を守るための共通の道標だったのです。
しかし18世紀半ば、航海技術の革新により経度と緯度によって船の位置を決定できるようになると、島嶼は航路の道標としての役割を終えます。さらに19世紀末には、蒸気機関による汽船が帆船を上まわり、もはや島嶼への関心は失われてしまいました。
そして1884(明治17)年、ある日本人実業家が、生物資源や鉱物資源を求めて尖閣諸島を探検しました。ここに、無人島だった島嶼の占有という課題が浮上したのです。1895(明治28)年、日清戦争のさなか日本政府はこの島嶼群を領土に編入しました。それからわずか120年しかたっていません。日中両国の2000年におよぶ交流の歴史から見れば、ささやかなエピソードの域を出ません。
こうした歴史を踏まえ、著者は日中両政府がともに、尖閣諸島を「固有の領土」と主張していることに対して、それはいつわりの概念であって、「虚偽概念を楯にして争う、これほど愚かなことはありません」と断じます。そして両国がともに領有権を放棄し、共同管理体制に移行することこそが「台湾をふくむ日中恒久平和への強固な一歩」と提案しました。
航海指針書を共有の知的財産とし、無人の尖閣諸島を航海上の道しるべとなる共有財産とした明・清と琉球の船乗りたちの歴史に想像力を働かせ、尖閣諸島を国家間の争いの焦点になることを望んでいない沖縄・台湾・中国の生活者の声を尊重するならば、船乗りたちの交流の歴史に尖閣諸島の未来の姿を描くことは、決して荒唐無稽な空言とはいえないと確信します。
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