鼎談『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』を読む
私の「戦後責任」についての認識は、鼎談参加者の一人が「はしがき」に書いている、日本社会における多数派のそれ、「え、それって何ですか?」とほぼ同じ。
「戦争責任」が、植民地支配と侵略戦争によるアジアの人びとの被害に対する加害者・日本国および日本国民の責任を指す言葉とすれば、「戦後責任」は何を意味するのか?「はしがき」には、「戦後責任」に関連するテーマとして、次の問題群が示されます。「靖国」問題、「南京事件」、「慰安婦」問題、「歴史認識」の問題、「教科書問題」、被害者・被害国への謝罪と補償の問題。いずれも戦後、そして現在に至るまで未解決の問題群です。こうした問題群を念頭に、「戦後責任」について考えていきます。
本書『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』(岩波書店、2014/6発行)は、市民運動家である三人の学究 ― 内海愛子、大沼保昭、田中宏 の各氏― が、近現代史研究者・加藤陽子氏の司会を得て行った鼎談・討論を編集したものです。内海愛子氏は、社会学を専攻し、『朝鮮人BC級戦犯の記録』(1982)他を発表、大沼保昭氏は、国際法学を専攻し、サハリン残留朝鮮人の帰還運動や日本軍「慰安婦」問題にコミットしながら、それらの関係著作を発表しています。また、田中宏氏は、在日コリアンの処遇問題や中国人強制連行問題などの解決に向けた運動に関わりながら、『戦後60年を考える ― 補償裁判・国籍差別・歴史認識』(2005)などを運動の成果として発表しました。内海・大沼・田中の三氏こそ、「戦後責任」の思想と行動を語るのに最もふさわしい人たちである、と思います。
まず、「なぜ、いま、戦後責任か」(序章)と問われ、三人は次のように語ります。
内海愛子氏は、朝鮮人BC級戦犯の運動に関わりながら、「この運動の当事者にとっては、過去はいまなお過去になっていない。自分の戦争体験をどういうかたちであれ決着させたいと願って60年間も運動してきたのです。だから・・・なぜいま戦後補償か、戦後責任かではなく、なぜいまなお戦後責任か、戦後補償か、そういう問いになるはずです」と問いかけます。
大沼保昭氏は、日本国民の「戦後責任」について、次のように指摘します。「日本国民が1931年から45年までの戦争と過去の植民地支配という歴史をどのように総括し、将来への教訓としていくかという、日本国民のアイデンティティのあり方に深くかかわる問題である」。
そして田中宏氏は、「戦後責任」について考え行動するなかで、支配者と被支配者、つまり日本人とアジアの人びとの間の言葉と心の溝を痛烈に感じてきました。たとえば、「救済」という言葉は、中国語では「恵んでやる」というニュアンスになり、「自分たちをバカにしている」ということになる。また千円札の肖像が伊藤博文に変わったとき(1963/11/1)、あるアジア人にこう言われた。「日本人はいったい歴史をどう勉強しているんですか?・・・・・あの人は朝鮮民族の恨みをかってハルビンで殺された人でしょう。戦前の日本ならともかく、これだけ平和な日本で、なんでこんな人を引っ張り出すのか。しかも、日本でいちばん数の多い外国人は朝鮮人で、彼らも毎日の生活のなかで使うわけでしょう。ずいぶん残酷なことを平気でやるんですね」。圧倒的多数の日本人はおそらく、千円札の肖像に伊藤博文が採用されたことについて「残酷なこと」とは感じなかっただろうと思います。それほどに日本とアジアの間の心の溝は深い。
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効の日、その前日まで日本国民だった在日朝鮮人・台湾人は、民事局長通達により、日本国籍を剥奪されました。その背景について、当時外務省条約局長だった西村熊雄は、次のように証言しています。「平和条約締結の際に国籍選択権を付与するのが通例であることはよくわかっていた。ただ、とにかく治安問題が大変だったから、国籍をいったん喪失させて、日本に居たければ帰化申請するしかないようにしておいて、彼らが帰化を申請してきたときに、いい朝鮮人と悪い朝鮮人を選別するという方針だった」。こうして朝鮮人と台湾人は、この日をもって「日本国民」でなくなりました。
サンフランシスコ平和条約第11条の「戦犯」に関する規定では、日本国民である戦犯への刑の執行を日本国が引き受ける、となっている。内海氏は、「日本国民でなくなった朝鮮人や台湾人は当然釈放されるはずなのに、釈放されなかった」ことに疑問をもちます。しかし、1952年7月の最高裁大法廷が、「刑を受けたときに日本国籍にあるものは、その後国籍に変更があっても刑の執行に影響はない」と判決を下し、日本国籍を失ったBC級戦犯の朝鮮人や台湾人は、釈放されませんでした。
1952年4月30日、サンフランシスコ平和条約発効から2日後に、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布されました。これには「国籍条項」があり、日本国籍を有しない「戦傷病者戦没者遺族」は補償の対象外でした。その後の各種法令においても「国籍条項」が多用され、そのため在日コリアの権利は大きく損なわれることになります。
最高裁大法廷は1961年、日本国籍の確認を求める裁判において、日本国籍を奪った1952年の民事局長通達を合憲としました。こうした経緯を踏まえ田中氏は、BC級戦犯の朝鮮人や台湾人が日本国籍を失ったにもかかわらず釈放されなかった一方で、彼らが「ケガをしたり死んだ場合、その後国籍がどうなろうと補償に影響を及ぼさないとどうしてならないのか?我が裁判所はそちらの国籍差別はかまわないと言う。いったいどうなっているのか」と問題提起しました。日本国籍剥奪後の朝鮮人・台湾人は、処罰からは逃れられず、補償からははずされるという矛盾の坩堝に落とされました。
また大沼氏は国際法学者の立場から、日本国籍を失ったBC級戦犯の朝鮮人や台湾人の釈放は無理としながらも、国籍条項を盾に補償を拒みつづける日本国を、厳しく糾弾します。「このように、自分たちが勝手に国籍を剥奪しておいて、年金や補償については「国籍がない」からといって排除する。そうしたやり方はいかなる法にも妥当する根本的な公正の理念に反する。まして、基本的人権の尊重を理念とする戦後の日本という国家がけっしてやってはならなかったはずです」。
この鼎談では「戦後責任」に関わる多くの問題群が議論されていますが、上に紹介した朝鮮人・台湾人の国籍剥奪問題、BC級戦犯の未釈放の問題、および年金・補償等の「国籍条項」による差別問題のなかにこそ、「戦後責任」の典型を発見します。「戦争責任」が植民地支配と侵略戦争によるアジアの人びとの被害と犠牲に対する責任だとすれば、上記の問題のなかにある「戦後責任」とは、「戦争責任」をひきずる日本国と日本国民とが、戦後再び加害者となってアジアの人びとの前に立ち現われたことの責任だといえます。1961年の旧植民地出身者の国籍剥奪に関する1961年最高裁合憲判決は今日なお維持されつづけており、戦後補償と年金に関する国籍条項による差別は、現在の問題でありつづけているのです。
私たちはいま、日本国と日本国民が犯した「戦争責任」について真摯に向き合うとともに、再び犯した戦後におけるアジアの人びとに対する加害責任、それは現在なお未解決の問題が圧倒的に多いのですが、「戦後責任」についても謙虚にそして誠実に向き合っていかなければならないと思います。本書は、そのための出発点になる貴重な記録だと確信します。
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