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2014年11月30日 (日)

パトリック・モディアノ著『1941年。パリの尋ね人』

  パトリック・モディアノはある日偶然、ナチス占領下のパリの新聞で、ある少女の「尋ね人」広告を読みました。その後『強制収容所移送者記録名簿』(1978年刊)によって、彼女がナチスによる絶滅計画の犠牲者だったことを知りました。モディアノは、このユダヤ人少女を無名の世界から引き出すため、少女の足跡をパリの街で追い求め、10年の歳月をかけて本書を書き上げました。

 1941年12月31日付の「尋ね人」欄に、次のように記されていました。
 「ドラ・ブリュデール。15歳。1㍍55、うりざね顔、目の色マロングレー、グレーのスポーツコート・・・・・。パリ、オルナノ大通り41番地、ブリュデ-ル夫妻宛情報提供されたし。」
 著者は、この「尋ね人」情報を手掛かりに少女の足跡をたどり、6年後にやっとわかった出生地パリ12区区役所で出生証明書を閲覧します。出生証明書からわかったこと。
 1926年2月26日、パリの病院にて出生。父、エルネスト・ブリュデール、1899年ウィーン生まれの工員、母、セシル・ビュルデージュ、1907年ブタペスト生まれの無職。出生地住所は、移住した貧しいユダヤ人家族の子どもが多く生まれた病院。ドラは、外国人移住労働者のユダヤ人の両親から生まれたのです。
 結婚前の父の足跡。退役軍人省に残っていたユダヤ人カードの「エルネスト・ブリュデール:フランス外人部隊2等兵」とナチス占領下のパリ警察カードの「傷痍軍人:傷痍度100%」の記述から、エルネストがフランスの外人部隊に雇用され、モロッコ制圧の戦争(1920-24頃)で負傷した、と著者は推定します。
 1924年、エルネストはセシルと結婚、1926年ドラを出産。その後、1940年まで親子3人の消息は空白となります。「この世に生きた証拠などろくに残していない・・・ほとんど無名の」彼らの生活についてはほとんどわからず、著者をして「この空白、未知と沈黙のこの暑い壁」と嘆息させました。
 小学校の学籍簿になかったドラの名前は、貧しい子どもたちのためのキリスト教寄宿学校「聖心マリア学院」名簿に、「1940年5月9日、3食付きの条件」で入寮したと記載されていました。両親は何故、ドラをこの寄宿学校に入れたのか? 著者は、1939-41年のフランスにおけるユダヤ人の過酷な境遇に、思いを馳せます。
 1939年9月、ドイツとの戦争がはじまると、在仏のドイツ帝国国民(旧オーストリア国民含む)は、集合キャンプに収容されました。翌年6月のフランス降伏後は、ユダヤ人は警察へ出頭・申告し、ユダヤ人身上書類の作成を義務づけられました。ナチスによるユダヤ人弾圧が始まり、その過酷さは日を追って厳しくなっていきました。父エルネストは、この身上書類には夫婦の名前だけを記入し、娘ドラの名前は書きませんでした。ドラの寄宿学校入寮は、貧しさと同時に、娘をナチスから守るためであったと著者は想像します。
 寄宿学校記録簿には、ドラが「1941年12月14日、脱走により退舎」と記されていました。このころ、ナチスに対するテロとその報復が繰り返され、「パリの経験したもっとも陰鬱で息苦しい時期」でした。1週間におよぶ夜間外出禁止令の解かれた12月14日、ドラは寄宿舎を出、その後行方不明となりました。従姉妹によると、ドラは反抗的で独立心の強い少女だった、といいます。著者には、ドラとドイツ軍に対してテロ活動を行う同年齢の反逆者とを結びつけずにはいられない、と思えるのでした。同年12月31日、先の「尋ね人」の記事が掲載されました。
 1942年3月9日、父エルネスト・ブリュデール、外国籍ユダヤ人のために逮捕され、ドランシー収容所に強制収容(警視庁保管文書による)。この保管文書には、警視総監宛ての数百通の手紙が残されていました。例えば、次のような手紙。
 「警視総監殿 娘、旧姓ヴィオレット・ジョエル、ジャック・レヴィの妻は正規星印未着用のまま境界線を越えようと試み、昨9月10日頃逮捕されました。なにとぞしかるべき配慮と寛大なご処置をせつにお願い申しあげます。娘は8歳半の息子ジャン・レヴィを同伴しておりました・・・」。
 著者は、ドラの足跡を追跡する途上で、彼女や両親と同様にナチスの犠牲になった人びとを、忘却の彼方から呼び寄せて、記憶にとどめます。
 脱走後行方不明だったドラが、1942年4月17日に母親宅に戻ったことが、警察署記録簿によって確認できます。しかし、脱走後のドラの足どりはまったくつかめない。厳しい寒さとバリ郊外の最初の爆撃といった、とりわけ過酷な冬でしたが。
 ニューヨークのユダヤ人研究所の保管文書から発見されたドラに関する情報によると、1942年6月15日、ドラは警察によって母親のもとに送り返され、少年少女更生院送りが指示された、とあります。4月17日の帰宅後、再び脱走したのです。そして何らかの理由によって警察に捕まった。6月7日以降、ユダヤ人は「黄色い星」の着用を強制されました。ドラは、星印を着けていなかったために捕まったのだろうか?  もしそうならば、他の多くの若者同様に、ドランシー収容所を経てアウシュヴィッツ収容所へ送られるはずです。
 レ・トゥーレン拘禁センターの記録簿には、レジスタンス参加者やコミュニストとともに、ドイツ軍布告に違反したユダヤ人女性の名前も見られる。この記録簿によって、ドラが1942年6月19日、レ・トゥーレンに入所したことを知ります。そして、1942年8月13日、レ・トゥーレンに収監されていた300人のユダヤ人女性がドランシー収容所に移送されました。ドラもその中に入っていました。
 ドラが6月19日にレ・トゥーレンに着いたとき出会った可能性があり、6月22日にアウシュヴィッツ収容所に移送された女性のうち、幾人かの消息について著者は突き止めました。その中の1人のフランス警察の記録から。
 「アネット・ツェルマン、女、ユダヤ人。1921年10月6日ナンシー生まれ。フランス国籍。1942年5月23日逮捕。5月23日乃至6月10日警視庁留置所に拘留。6月10日レ・トゥーレル収容所送り。6月22日ドイツへ移送。逮捕理由、アーリア人ジャン・ジョージオンとの結婚を計画。将来を誓い合った二人は、H・ジョージオン博士の切なる願いに従い、結婚計画を完全に断念することを書面で表明。博士は二人が結婚を思いとどまることを願い、若いツェルマンが何の心配もなく、ただ単に家族のもとに戻れることを願った」。
 本書巻末の年表で読者は、1935年9月15日ニュールンベルク法が施行されたことを知ります。それは、「ドイツ国民の純血を守るため、ユダヤ人との結婚・性交渉の禁止を骨子とする」ものでした。
 ツェルマンの恋人ジャン・ジョージオンは、1944年秋、従軍記者として故郷を出発、「ドイツ軍の隊列に車ごと突っ込み、ドイツ軍に応戦の暇をあたえず機銃掃射を行ない、望みの死に場所を得た」と著者は補足します。
 ドラがレ・トゥーレンで知り合った女性の中に、ドイツ人から「ユダヤ人の友だち」と呼ばれた女たちがいました。ユダヤ人が黄色い星の着用を強制されたとき、ユダヤ人女性に連帯して、非ユダヤ人にかかわらず彼女らも黄色い星を着けました。そして全員が逮捕され、ユダヤ人とともにドランシー収容所へ送られました。
 ドランシー収容所に送られたドラは、3月から収容されていた父親と再会しました。そして父娘とも、9月18日、他の千人の男女とともに、アウシュヴィッツに向け列車に乗せられました。ドラの母、セシル・ブリュデールは、1943年1月9日、ドランシー収容所に入れられ、同年2月11日、列車でアウシュヴィッツに送られました。
 1942年9月18日にドランシーからアウシュヴィッツに向かったユダヤ人1,000人のうち、到着後ただちにガス室送りになった者は859人、強制労働に従事させられた者141人、そして1945年時点での生存者は男性21人だけだったと、「訳者あとがき」が教えてくれます。

 以上が作家パトリック・モディアノが、執拗に追跡したユダヤ人少女の歩んだ軌跡です。忘却の淵に沈んでいた過去の記憶が半世紀を経て、ここに書きとどめられました。2014年、スウェーデン・アカデミーは、モディアノの文学とりわけ『1941年。パリの尋ね人』を、「忘却の彼方にある人びとの運命を思い起こさせ、ナチス占領下の世界の人生を描き出した"記憶の芸術"」として称賛し、ノーベル文学賞を授与しました。戦争犠牲を記憶しつづけることの普遍的な価値が、あらためて確認されたといえます。第2次世界大戦での対立と憎しみを克服し、相互理解と和解を達成するためには、戦争犠牲を記憶しつづけることが大前提であると痛感しました。

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