沖縄への旅 1-アジア太平洋戦争終結70年の年に-
沖縄を旅してきました。三度目の沖縄です。一度目は48年前(学生時代)に、八重山諸島の稲作調査で訪れました。当時は日本復帰前で、パスポートとドル紙幣をもっての旅でした。空には、ヴェトナム空爆に向かうB52戦略爆撃機が、爆音を轟かせていました。二度目は、就職して五年目の年、沖縄の花卉栽培について学ぶためでした。この二度の沖縄訪問では、沖縄戦の跡を辿ることも、米軍基地に近づくこともありませんでした。
そして三度目の今回、南部戦跡と三ヶ所の米軍基地を訪れました。嘉手納、普天間、そして辺野古の新基地建設現場。沖縄戦の犠牲の記憶が刻印されている戦跡、その74%が沖縄に集中し現在なお沖縄の人びとに犠牲を強いている米軍基地、そして、その建設を許すならば、さらに今後100年から200年ものあいだ、沖縄を米軍基地の犠牲にさらしていくことが予測される辺野古新基地。今回の旅行は、沖縄の過去と現在の犠牲のあり様を見つめ、未来の犠牲を必死になって食い止めようと闘う人びとの姿と間近に接する、私にとっては貴重な体験となりました。
南部戦跡では、「ひめゆりの塔」と「平和の礎」を訪ねました。
糸満市にある「ひめゆりの塔」は、介護要員として動員され犠牲となった女子学徒と教員の鎮魂のための慰霊碑です。塔と納骨堂のあいだには、壕(ガマ)が大きく口を開けていました。修学旅行の高校生たちが、慰霊碑に向かって手を合わせていました。
隣接するひめゆり平和祈念資料館に入り、ひめゆり学徒隊の悲劇について学びました。アジア太平洋戦争末期、敗色濃くなった日本は兵力が不足し、本土防衛の防波堤(捨て石)とされた沖縄では、十代の中学生や高等女学校の生徒を含む根こそぎ動員が掛けられました。男子学徒は「鉄血勤皇隊」として軍に配属され、女子学徒は看護要員として動員されました。沖縄師範女子部と県立第一高女のひめゆり学徒隊222人は1945年3月24日、南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。彼女たちは、壕掘りや食事の運搬のほか、手術の助手や包帯の取り換え作業をしました。資料館の「証言の部屋」で最初に開いた本のなかに、次のような体験談が記されていました。
「戦況が激しくなると、内科は廃止され、第二外科に名称は変わりました。私たちの仕事は手術で切断する手足を持つ役目です。麻酔はエーテルを嗅がせるくらいで、切断される患者の手をにぎり、押さえつけて、頑張ってくださいと励ますのです。しかし大変です。切断したらその握っていた手が離れないんですよ。『アキサミヨー(大変なことになった)』して必死に外しましたがね、まだ熱もある切断した手足を大急ぎで何かに包んで汚物入れ箱に捨てていました。」(津波古ヒサの証言から)
激しい戦闘や砲撃にさらされ5月25日、病院は南部に撤退し、いくつかの地下壕に潜むことになりました。6月18日、絶望的な戦局のさなか学徒隊の解散が命じられ、翌日「ひめゆりの塔」の第三外科壕ではガス弾の攻撃によって、96名中85人が亡くなりました。そのうち教員と学徒は46人でした。このほか、米軍の銃乱射で撃たれたり、集団自決に追い込まれて多数の犠牲者を出しました。ひめゆり学徒隊240名(生徒222名、教員18名)のうち136名が犠牲となり、とりわけ解散命令後の死亡者は117名を数えました。ここでも、戦争終結の遅れが、犠牲者の数を増大させたことを知ります。また日本軍は、年若い生徒たちの命を守ろうとはせず、壕を出れば死しかないことを承知の上で、学徒隊解散を命じたのです。「軍は国民の命を守らない」という沖縄戦の教訓は、ひめゆり学徒隊の犠牲においても、貫徹されました。
「証言の部屋」には、中央に十数冊の大きな証言の本が開かれており、そのまわりを、ひめゆり学徒隊の犠牲者の写真が囲んでいました。姓名・年齢・出身地・死亡原因が記されていました。すべての写真とその説明文を、出来るだけ丁寧に時間をかけて読みました。国家によって見捨てられた少女たちの悲しみと憤りに、ひとり思いを寄せました。人気のない部屋には、聖歌のような女声合唱の声が、静かに流れていました。
糸満市摩文仁にある広大な沖縄平和祈念公園に、断崖となった海に面して黒い大理石の碑が、屏風を連ねたように建っていました。「平和の礎(いしじ)」。敵・味方なく沖縄戦で亡くなったすべての国の戦没者の名前が刻まれています。沖縄県の戦没者(そのほとんどが民間人)は出身の市町村ごとに刻され、他県の戦没者(ほとんどが日本軍将兵)は各県別に刻されています。外国人については、米国、英国、韓国、朝鮮民主主義共和国、台湾と、出身国別にまとめられています。「平和の礎」の入り口に、2014年6月現在の刻銘者数(判明した戦没者数)を記した看板が立っており、その内容は次のとおりでした。
日本 沖縄県 149,329人 県 外 77,380人
外国 米 国 14,009人 英 国 82人
台 湾 34人 朝鮮民主主義人民共和国 82名
大韓民国 365人
合計 241,281人
最も新しい刻銘は2014年でした。今なお、わかった戦没者名を刻みつづけています。あらためて沖縄戦の激烈さと沖縄県民の犠牲者の甚大さを胸に刻みました。
韓国の戦没者名を刻印した石碑の前に立ち止まりました。沖縄戦における朝鮮人の犠牲者は1万人を数えると云われていますが、詳細はいまだ不明だということです。それに比べ、石碑に刻まれた韓国・朝鮮人の少なさに、驚きました。「鐘玉」とか「文玉」というのは女性の名前でしょうか。朝鮮人軍夫にまじって、朝鮮人慰安婦が沖縄に配属されていたことを思い起こしました。
「平和の礎」の後背部は、断崖絶壁となっており、海岸には大きな波が打ち寄せていました。
旅の都合上、沖縄県平和祈念資料館を訪ねることは出来ませんでした。近い将来の再訪問を期して、平和祈念公園を後にしました。
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