歴史と記憶-エヴァ・ホフマン著『記憶を和解のために』を読む
先に読んだ『1941年。パリの尋ね人』の著者、パトリック・モディアノの仕事は、パリという場所のもつ記憶を発掘することにより、フランスの社会と歴史に秘められた記憶を発掘することでした。そうした外部の記憶に、モディアノの個人史(ユダヤ人である父親との関係等)の記憶を流し込むことによって、外部の記憶に血を通わせます(同書「訳者あとがき」より)。こうしてアウシュヴィッツに消えた15歳の少女の記憶が、忘却の彼方から引き寄せられ、『1941年。パリの尋ね人』というノンフィクション作品によって、次世代へと語り継がれていきます。
ホロコーストを体験した両親のもとで育ったエヴァ・ホフマンは、第二世代(生存者の子供世代)が過去と現在を繋ぐ存在として、ホロコーストを引き継ぐ使命を強く自覚します。そして、世界に向けて詳らかになったホロコーストの事実が、歴史や神話に変容されてきたなかで、現在を生きる私たちが、ホロコーストをどのように理解すればよいのか、ホロコーストの意味は何なのか、その意味を次世代に伝えていくにはどうすればいいのか、と問いつづけます。彼女の著書『記憶を和解のために-第二世代に託されたホロコーストの遺産』(みすず書房2011年刊)は、そうした問いかけに対するひとつの回答です。
エヴァ・ホフマンの両親は戦前、ウクライナの小さな寒村に住んでいました。そこでは、ウクライナ人とポーランド人とユダヤ人の三つの集団が、緊密で対等に居住していました。しかし戦争が起こると、民族間の対立と反ユダヤ主義がたかまり、三つの集団は暴力的な関係へと変わりました。ナチス・ドイツが侵攻しユダヤ人狩りが始まると、両親はあるウクライナ人一家によって、屋根裏や森の中の穴倉に匿われました。近隣の村では、ユダヤ人の大量虐殺がありましたが、両親はかろうじて隠れ通しました。戦後、両親はポーランドのクラクフに移り住み、エヴァはその地で生まれました。しかし移住したポーランドは、民族対立やソ連への抵抗運動で揺れ、また反ユダヤ主義の暴力が根強く、一家はカナダへの再移住を強いられました。これがエヴァの両親の生還の物語です。
エヴァ・ホフマンは本書で、ホロコーストの「記憶」に焦点をあて、それが個人に刻印されやがて集団的記憶へと展開していく跡を追い、それにともないホロコーストに関する言説が変容していく様子を記します。この記事では、著者が「記憶」について述べている章句を要約・引用し、今後、歴史と記憶、忘却と継承、謝罪と和解、等々を考えていくうえでの参考としたい。
《ホロコーストを伝えていくことの現状認識》 生存者(第一世代)が人生の終局の年齢となり、直接的な体験が消失していく状況下で、いまやおぼろげな輪郭からも現実の記憶からもショアは遠ざかり、過去と歴史の茫漠とした領域に滑り込んでしまっている。(p.164)
《ホロコーストをめぐる言説の推移》 ホロコースト直後の最初の衝撃と発見の段階では、世界の反応は、怒り・悲しみ・正義を求める倫理的な感情からの反応であった。近年になって隠喩的な「記憶」という言葉やスローガンへと移行してきた。そこでは、ホロコーストに対する直接的な反応が問われるのではなく、過去の事物に対する回顧の視点で語られること、いまだ現在にも組み込まれている事柄であるよりむしろすでに希薄化していく過去のものとして対象化されていく。(p.166-7)
《ホロコーストの記憶とは》 死んだ者を心の中に留めることをやめてしまって、彼らとの象徴的な関係を保つことができなくなるなら、私たちが人間であることの価値が減じてしまうのだ。記憶するということは、他者の具体的な存在や彼らから何かを得ようとすることではなく、彼らの人生がいかに大切なものであったかに思いを深くする行為なのだ。不条理な死を迎えた者には、彼らの死の大切さに思いを深くしなければならない。(p.171)
《記憶・儀式・癒し》 個人と同様に、記憶を通して死者を思い、集団で追悼し儀式を行うことは、どうしても必要な行為である。その行為を通して痛みが和らぐのであって、それがないと個人とっても集団にとっても、過去と区切りをつけて前に踏み出すことはきわめて困難になる。(p.171)
《集団記憶の欠落》 アルメニア人大虐殺(1915年トルコ軍によるアルメニア市民100万人殺害)は何十年ものあいだ忘却され、世界が無関心だったことが災いして、ヒットラーが自身のユダヤ人絶滅計画を簡単に進めることを可能にした。絶滅計画によって歴史上汚名を残すのではないかと懸念されたとき、ヒットラーは公然と言い放った。「誰がいまアルメニア人の虐殺のことを覚えているというのだ?」背筋が寒くなるような言葉だ。(p.172)
《集団の記憶と癒し》 恐怖の光景を目の前から取り去るためには、私たちは個人的にだけではなく、集団として記憶し、悼むという苦しい行為をまずやり遂げなくてはならない。共感と理解という癒しが、その行為の助けになる。まずホロコーストを記憶にとどめ、集団的な意識に取りこむことが、しばらくのあいだもっとも重要な目的になる。最初の段階に誰からも関心をもたれなかった者は、自分たちの悲劇が他者によって認識されることで苦しみから解放され、思い荷をやっとおろすことができるようになる。(p.172)
《個人的な記憶から集団的記憶へ》 「記憶」は人間の能力の中でもっとも曖昧で潜在力を持つ機能だ。苦しい体験を通り越した生存者たちにとってさえ、記憶に至る過程は固定的なものであるよりもむしろ流動的なものだ。個人的な経験が内的な働きや過去を再認識する力によって変化していったとしても、生存者たちの中に強く存在する記憶は拭い去られるものではない。しかし、生々しい記憶の時代が終わると、ショアと直接繋がる力が弱まって、それにつれて私たちは虚像の記憶の時代に移りつつある。直接的で生々しい記憶=「個人的な記憶」から、間接的に伝えられる記憶=「集団的な記憶」への移行。
個人が記憶する具体的なものに対して、集団的記憶は極端に拡散してしまい、たとえばプロパガンダや検閲、偏った恣意性や誇張など、作り上げられたかたちやそこで抽出されたものにひじょうに影響を受けやすい。主観的な思考や理解であるよりはむしろ、文化的なあるいはイデオロギー的な性質をもつ。
《ホロコーストの政治的利用》
アメリカ:戦後すぐは、ドイツが新たな同盟国として重要であったために、反ドイツ的な空気を減じるために、ショアへの関心は抑圧された。その後、ユダヤ人共同体のなかで宗教的・倫理的絆が薄れていく時代に、アメリカのユダヤ人たちのアイデンティティを救いだすべく、ホロコーストはきわめて明確なかたちで顕在化されていった。
イスラエル:長い潜伏期間と否定の時代、新たな国家としての意識からユダヤ人の受動性と犠牲のイメージをぬぐい去ろうと努力を重ねた時代が過ぎ去ると、ホロコーストは一転して時代の最先端に引っ張り出された。ほとんど無視されてきた記憶が、時宜を得て「理にかなった物語」として再浮上して、イスラエルの外交上のさまざまな戦闘行為が国民の意志であるかのように、正当化され、そして最終的には占領の権利があると主張するために利用された。(p.178-9)
《真実の記憶》 私たちがホロコーストを「記憶する」というのであれば、イデオロギー的な視点からではなく、地道で真摯な思索を通して記憶すべきなのだ。現在一時的でしかない政治の「事柄」ではなく、人間の現実に関わる恐るべき出来事として、そして過去そのものとして記憶されなくてはならない。(p.181)
《ホロコーストの神聖化》 ある種の特別な信念の枠組みなしに「記憶」が前に押し出され、畏れのレトリックが繰り返されると、恐怖を美化し、否定的なものを意図もなく神聖化してしまう危険性を招きかねない。ホロコーストの大きさを語る言葉が、うわべだけの敬虔さの単なる常套句に代わってしまう。「記憶すること」の命令が過剰に叫ばれると、思考を促すどころか、私たちが何を記憶しょうとしているのか、それがどんなに難しいことなのかを理解することさえできなくなる。(p.187)
《帰還者の救済》 ある背の低い老人が、ホロコーストの生還者だといって訪ねてきた。私に重要な話があるという。彼が語る長い話は、非常に詳細で恐怖に満ちたものだった。彼は話し終わると、去っていった。その話を私に聞いてほしかったのだ。
私には、老境に達した生存者たちがなぜ誰かに自分のホロコースト体験を語りたいと願うのか、なぜ人類の記録から黙って消え去りたくないと願っているのか、痛いようにわかる。苦しい体験を経て、少なくとも自分の刻印された小さな遺伝子が大きな集団文化のどこかに記憶されることで、救済されるということではないだろうか?(p.198)
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