隣国韓国の「自省的・自己批判」の書-朴裕河著『帝国の慰安婦-植民地支配と記憶の闘い』
8年前、日韓の不信と対立が深まる中、一人の韓国人女性が両国の和解を求め、次のようなメッセージを両国民に送りました。日本の朝鮮植民地時代の「被害者の示すべき度量と、加害者の身につけるべき慎みが出会うとき、はじめて和解は可能になるはずである」(朴裕河著『和解のために』06年刊)。私はこの本を、通勤途上の車中で読んだのですが、被害者である韓国の人々に「赦し」と「自省」を求めた著者の勇気ある発言に、強く感銘をうけたことを思いだします。
しかし、その後の日韓関係は、著者の願いとは逆に極めて深刻な対立へと突き進み、両国民の感情は波立ち、両国首脳の就任後初の会談すら開催することができずにいます。対立の焦点は、慰安婦問題。昨夏の朝日新聞による慰安婦記事の検証以後、日本では慰安婦問題を否定する動きがさらに強まっています。
朴裕河氏は再び、両国の和解を祈念する立場から慰安婦問題解決への道を提案するため、『帝国の慰安婦-植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版、2014/11/30刊)を日韓両国で発表しました。しかし韓国では、「元慰安婦たちの名誉を棄損した」として、支援団体から提訴・告訴されました。日韓両国の政府と人びとが、「慰安婦」について、一方が「日本軍に強制連行され虐げられた性奴隷」とし他方が「自発的な売春婦」として深刻な対立に陥る中で、例えば著者の次のように記述に対して、支援者団体が反発したことが想像されます。
「何よりも「性奴隷」とは、性的酷使以外の経験と記憶を隠蔽してしまう言葉である。慰安婦たちが総体的な被害者であることは確かでも、そのような側面のみに注目して、「被害者」としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる。それは、慰安婦たちから、自らの記憶の〈主人〉になる権利を奪うことでもある。」(p.143)
著者のいう「被害者としての記憶以外」とは、何を指すのか。
兵士は「命」を提供し慰安婦は「性」を提供することで、国家によって「戦力」とされた同志のような側面もあったこと。そのためときには、お互い憐憫を感じ恋愛感情を抱くことすらあった。このような記憶。
また次のような記憶もあります。朝鮮人慰安婦たちは、自ら抱え主となって、ほかのアジアの女性を雇い入れ、慰安所を運営することもあった。「朝鮮人慰安婦は男性や軍や国家の被害者でありながら、大日本帝国に中で〈二番目の日本人〉の地位にいた」のです。
著者は、元慰安婦たちの声にひたすら耳を澄ませることによって、朝鮮人慰安婦が「性奴隷」といわれる側面と同時に、さまざまな多様な顔をもっていたことを明らかにします。そのことによって、「性奴隷」か「売春婦」か、あるいは「強制連行」か「自発的」という対立を乗り越えようと模索します。議論と検証は広範囲に及んでおり、とてもここでは紹介しきれません。
作家の高橋源一郎さんの書評は、この本についての私の感想を代弁してくれているように思いました。
「感銘を受けた、と書くのもためらわれるほど、峻厳さに満ちたこの本は、これから書かれる、すべての「慰安婦」に関することばにとって、共感するにせよ反発するにせよ、不動の恒星のように、揺れることのない基軸となるだろう」(朝日新聞「論壇時評」2014/11/27)。
この本の底流には、ポスト植民地国家である韓国が、「これまで植民地時代ときちんと向き合ってこなかった」というきわめて強烈な問題意識が流れています。著者を含む韓国社会にたいする〈自省的・自己批判〉の書なのです。
「戦後、韓国解放後に自らの〈自発性〉を忘却の彼方へ消し去りたかった元帝国臣民に」とって「植民地は一貫した〈抵抗の地〉でなければならず、それは本人の記憶や意志を超えての、新しく出発した独立国家の夢でもあったのだろう。・・・数少ない抵抗者たち・・や・・「反体制派」だった人々の行動や記憶を、中心記憶として再出発するほかなかった。」(p.60,61)
この記述を読んだとき、1950,60年代におけるフランスの「第二次世界大戦の記憶」との相似を思い浮かべました。そこでは、「フランス全体を抵抗者として英雄視することで、占領時代の記憶や戦争捕虜の記憶、人種的理由に基づいて強制収容所に抑留された人々の記憶はその陰に覆い隠されてしまった」のです(『ドイツ・フランス共通歴史教科書・現代史』08年刊)。ナチス・ドイツに蹂躙されたフランスと軍国主義・日本に侵略され植民地となった韓国・北朝鮮の解放後の共通の「神話」だといえます。
朴裕河氏は、「朝鮮人慰安婦」問題を解明する中で、植民地解放後70年の韓国社会に対する根源的にして自省的な自己批判に到達したといえます。この本を私たち日本人は、どのように読めばいいのでしょうか。著者は、朝鮮人慰安婦の「性的奴隷」の側面や日本人兵の暴虐については、ほとんど記述していません。これを根拠に、「慰安婦問題はなかった」と主張するならば、それは著者が前著で述べた「加害者としての慎み」を忘れたことになります。私たちは、著者の自己批判にまさる厳しさをもって、加害者としての自己認識を深めなければなりません。日本の「戦後責任」が、問われています。
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