鎌仲ひとみ監督作品『小さき声のカノン―選択する人々』
🎼 うまれてきたから 生きていきたい
命をかけて 産んで育てる
朝露 踊る 蓮の葉
心も揺れる 絶え間なく
空にこぼした ザクロのしずく
今日も無事に 終わってく 🎶
(「小さき声のカノン」エンディングテーマ、NUU「うまれてきたから」1番)
最後のテーマソングが流れたとき、小さな映画館のなかで、やっと歩きはじめたばかりの幼児の泣き声が、聞こえました。この日の上映は、親子参加のために用意された、特別の日でした。その少し前、スクリーンのなかでも、赤ん坊が泣いていました。この世に生を受けた幼児たちが、スクリーンの中と外で、小さな声で歌い合っているように聞こえました。
ドキュメンタリー映画『小さき声のカノン―選択する人々』は、高濃度の放射性物質によって汚染された福島の地にあって、家族と一緒に福島に留まるのかそれとも避難するのか、不条理な選択を迫られた母子の迷いと苦悩の日々が、描かれています。
境内で幼稚園を開いている二本松市の住職一家は、門徒や幼稚園児を放っておけないとの思いから、福島で家族と一緒に暮らすことを選択しました。当地は、強制避難を強いられた地域と同じ程度に、放射性物質によって汚染されましたが、それにもかかわらず、政府と県は、避難ではなく除染によって放射線量を下げる、という方針をとりました。住職夫婦は、自分たちの子どもと園児たちを、被ばくからどのように守っていくのかが、大きな課題でした。地元食品の放射線検査や遠隔地からの支援の食べ物で、何とか内部被ばくを避けようとします。また、境内や通学路の除染によって、外部被ばくのリスクを出来る限り避けようと懸命に努力します。しかし、行政は、学校給食に福島産の農産物を優先使用し、通学路のホットスポットを除染対象から外します。国によって見棄てられた、と住職はつぶやきます。
福島市で3人の子どもと暮らしていた母親は、自主避難の道を選択しました。息子の身体の異常に危機感を募らせ、敷地内の空間線量が1.5~2.0μ㏜/hもあり、山梨県へ避難しました。すでに結婚していた次女は、夫を福島において、母親とともに避難しました。昨年出産し、夫のいる福島へ戻りたいけれど、迷っています。自主避難者にはほとんど補償はないが、帰還すれば90万円もらえる、とのテロップが流れます。母親はいま、避難先で深呼吸ができること、外に洗濯物が干せること、そして外で遊べることに幸せを感じる、としみじみと語りました。
この映画のもう一歩の柱は、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故によって甚大な被害を受けたベラルーシの人びととの出会いです。ここで私たちは、ベラルーシの貴重な経験と教訓を学ぶことができるはずです。
ベラルーシの小児科医、スモルニコワさんは、次のように語りました。
有名な教授の「ここで生活して大丈夫」の発言で人びとは安心しました。しかし、子どもたちが病気になったり、障害をもつ子どもが生まれたりしました。子どもたちは、鼻血、頭痛に悩み、耐久力と体力がありませんでした。しかし、原因はわかりません。被ばくした多くの子どもたちに、同じ症状がでていました。やがて、被ばくの症状を改善するためには、子どもたちを被ばくから解放するしかない、海外で保養させようという活動が始まりました。その結果、子どもの体から放射性物質を排出することが可能だということを、知りました。21日間の保養で、半分は体から出ていきました。
スモルニコワさんが送りだしてくる子どもたちを19年にわたって受け入れてきた、日本の市民団体「チェルノブイリのかけはし」は、福島原発事故の被ばく地からも、子どもたちを受け入れました。カメラは、幼い男児が大きなペットボトルに尿を溜めているシーンを、映し出しました。「12日間の保養で数値が半分以下に減った」とのナレーション。ベラルーシの教訓が顕著に表れたことに驚き、一縷の望みを持ちました。しかし、被ばく地となった福島とその周辺に住みつづけることが、とりわけ幼い子どもたちの身体を、放射線に曝しつづけることになることを、あらためて考えざるを得ませんでした。
映画のラストは、二本松の母子たちが保養のため、沖縄の宮古島へ出かけるシーンでした。苦渋に満ちた希望への旅立ちです。
幼児を抱えた若い母親たちの健気な努力に、目頭が熱くなりました。一方、国や行政の不作為に対して、児玉龍彦さんが国会で叫んだ「国会は一体、何をやってるのですか!」という満身の怒りの声を思い出し、私もまた、叫びたい欲求に駆られました。
いま全国で上映中です。是非、映画館へ足を運んで欲しい。
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