丸山眞男稿『憲法九条をめぐる若干の考察』(1965/6)を読む
5月3日、高崎の群馬音楽センターで開かれた「第31回憲法記念日集会」に参加しました。この10年、毎年参加することが、恒例となりました。今回は、弁護士の宇都宮健児さんの「戦争をする国づくりを止め
憲法改悪を許さないために」と題した講演会がありました。宇都宮さんは、「憲法改悪の動きはピンチではあるが、あらためて日本国憲法の立憲主義の理念や国民主権・基本的人権の尊重・恒久平和主義の原理を日本社会に定着させるチャンスでもある」と力強く語りました。約二千席の会場を埋めた参加者から、大きな拍手が起こりました。
集会からの帰宅後、丸山眞男稿『憲法九条をめぐる若干の考察』を読みました。10年前に買った岩波書店発行の「1946-2005『世界』憲法・論文選」のなかに収められていた講演録です。1965年6月号の「世界」に掲載されたもの。岸内閣のもとで作られた内閣憲法調査会の最終報告書が発表された段階での講演です。この講演録は、加藤周一対話集『憲法・古典・言葉』のなかで触れられていた「戦争絶滅請合法案」の話題の出所文献として、知りました。そこでまず、丸山が「戦争絶滅請合法案」について触れた箇所を、そのまま引用します。
「ここで少し与太話になって恐縮ですけれども、かって、長谷川如是閑さんが主筆をされていた雑誌『我等』に、「戦争絶滅請合法案」というのを紹介したことがあります(1929年1月号)。これはデンマークの陸軍大将のフリッツ・ホルンという人が冗談に作った法案ということになっていますが、簡単に申しますと、「各国政府は、宣戦布告後または戦争開始後の十時間以内に次の処置をとるとして、「左の各項に該当するものは最前線において実戦に従事させる」という順序が書いてあります。まず第一に国家の元首、ただし男子にかぎる。次に元首の男子親族、次に総理大臣、各国務大臣、次に次官、それから国会議員、ただし戦争に反対投票した議員は除かれます。それから宗教家で戦争を煽った者、こういう順序で宣戦開始後十時間以内に、第一線へ送り出す。こういう法案が通れば戦争を絶滅することは請合いというわけであります。如是閑さんはそこで最後に、これが実行されるためには、戦争絶滅請合法案の採用請合法律案をさらに起草しなければいけないと結んでおりますが、この冗談な「法案」のなかに含められた真実―戦争が誰によっておこされ、しかも被害を受けるものは誰であるかということについてのむごい真実を何人も否定できないでしょう。」
この話題は、憲法講演会の話ネタとして使われることが時々あるようで、ネット上にも拡散しています。だから引用は、二番煎じの感が強いのですが、しかし安倍政権のもと、格差拡大と軍事国家化が急速に進むのを見ていて、丸山眞男の指摘した「戦争が誰によっておこされ、しかも被害を受けるものは誰であるかということについてのむごい真実」を一人でも多くの人びとに知ってもらうには格好の話題だと思い、引用しました。
講演の本論について、いくつか触れておきます。
1.憲法改正の動機は自主的なのか他律的なのか、の問題について
まず丸山は、再軍備のための憲法改正問題は、アメリカの極東戦略に基づく要請によって他律的に議論されてきた、と指摘します。これは50年後の現在も、全く同じこと(ただ、「極東」が「世界」に拡大)。そして丸山は、日本国憲法をアメリカに「押し付けられた」と批判する改憲派が、憲法改正についての他律的動機について口をつぐんでいることを、次のように批判します。
「今日、現行憲法制定の歴史的事情を改憲論の立場から強調する人々が、ともすれば、まさに改憲問題登場の歴史的事情、その他律的なファクターに目をつぶり、あるいはそこに触れたがらないのは奇妙なことと思います」。
改憲派の人びとは、「自主憲法制定」をスローガンにしています。その主たる動機が、当初はアメリカからの再軍備要請であったし、そして現在は同じくアメリカからの「集団的自衛権」にもとづく日米共同軍事行動です。「他律」を「自主」と読み替えるご都合主義。
2.第九条の理想と現実の問題
次に、戦力不保持という理想と自衛隊の存在という現実のなかで、第九条のもっている思想的意味を、丸山は次のように語ります。
「自衛隊が現にあるという事実はなんぴとも否定することはできない。しかしこれをますます増強する方向に向うか、あるいはそれをできる限り漸減したり、あるいは平和的機能に転換させる方向に向うか、によって、現実は非常にちがって来ます。その場合における方向性を決定する現実的な規定として第九条というものが生きて来る。・・・自衛隊がすでにあるという点に問題があるのではなくて、どうするかという方向づけに問題がある。したがって憲法遵守の義務をもつ政府としては、防衛力を漸増する方向ではなく、それを漸減する方向に今後も義務づけられているわけです。根本としてただ自衛隊の隊員を減らすというようなことよりも、むしろ外交政策として国際緊張を激化させる方向へのコミットを一歩でも避け、逆にそれを緩和する方向に、個々の政策なり措置なりを積重ねてゆき、すすんでは国際的な全面軍縮への積極的な努力を不断に行うことを政府は義務づけられていることになる。したがって主権者たる国民としても、一つ一つの政府の措置が果してそういう方向性をもっているかを吟味し、監視するかしないか、それによって第九条はますます空文にもなれば、また生きたものになるのだと思います。」
この丸山の見解は、「自衛隊の存在を認めるならば、九条を改めるしかない」という、ある意味で常識的な考え方に対して、現在なお説得的だと思います。戦争は外交努力によって回避することはできます。しかし、自然災害の発生は不可抗力であって、人の力ではどうすることもできない。自衛隊が災害救助隊として編成され直していけば、それはまさに「平和的機能に転換させる」ことになり、そこでの自衛隊の活躍は世界から称賛され、まさに「国民的な誇り」となって語り継がれていくことだと確信します。
3.改憲派の「民族的誇り」について
丸山は、ほとんどの改憲論者、とくに非武装条項を攻撃する人々は同時に「日本固有の国柄とか、民族の特殊性とか伝統を非常に強調し、現行憲法にそういう面が乏しいことを慨歎する人々」であると指摘します。現在の改憲論者もそのとおり。そして、「軍備とか戦力を中核として国民的自主性とか、民族的誇りというものを考える限り」つまり改憲論者の立場に立つ限り、一方で「諸民族の質的な差異」を前提にしながら、他方で「質的特徴のない兵力量の差異」に還元されるという「滑稽な逆説」を避けることができない、と鋭く矛盾を突きました。そしてこの項の最後に、次の名言が発せられました。
「国民的個性を代表する文化財というものは本来軍事的エネルギーにおきかえられない。「源氏物語」も、「ハムレット」も「ファウスト」もロケットとして発射できないということであります。」
「言い得て妙」とは、まさにこうした物言いを指してゆうのだと、納得しました。この5月3日の憲法記念日は、丸山眞男から学ぶこと大でした。
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