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2015年6月15日 (月)

沖縄と日本国憲法

軍民20万人が死亡した沖縄戦から70年が経ちました。今冬訪問した摩文仁の丘に建つ「平和の礎」に、あらたに87人分の戦死者が刻銘され、刻銘者総数241,336人となりました(沖縄タイムス6/11ウェブ版)。この平和の礎(いしじ)は、沖縄戦で亡くなったすべての人の名前を刻んだもの。いまなお、沖縄戦での戦死者名が発掘されつづけています。

米軍は、1945323日、沖縄各地に空爆と艦砲射撃を加え、26日には慶良間諸島に上陸、そして41日、沖縄本島へ上陸しました。その後、沖縄本島各地で、日本本土上陸作戦遂行のための拠点確保をねらう米軍と、沖縄を「捨て石」にして本土決戦に備え戦闘を引き伸ばそうとする日本軍との間で、熾烈な戦闘が行われました。しかし、沖縄守備隊は6月下旬壊滅、623日牛島満司令官らが自決して組織的戦闘は集結しました。その後、各地で局地戦がつづき、97日の南西諸島の日本軍の無条件降伏をもって、沖縄戦は終結しました。

沖縄戦の戦死者数は、沖縄県福祉・援護課の推定によると、次のとおりです。

      本土出身兵         65,908

      沖縄県出身軍人・軍属    28,228

      一般住民          94,000

      米  軍           12,520人       

       合  計          200,656人    

この「一般住民」の中には、「集団自決」(強制集団死)による死者やスパイ容疑によって虐殺された沖縄県民が含まれます。また「沖縄県出身軍人・軍属」には、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊などの学徒隊の死者が入ります。1万人以上(推定)いたとされる朝鮮人軍属や従軍慰安婦の死者たちは、この中には含まれていません。

 

いま、戦争法案の国会審議が、大きな山場を迎えています。最大の争点は、「集団的自衛権は日本国憲法違反」であるか否か。国会で参考人陳述した三人の憲法学者たちはそろって、「違憲である」と証言しました。憲法九条を素直に読めば、これらの戦争法案が違憲であることは、明らかです。憲法学者たちは、戦後70年の平和憲法論争と歴代政権の憲法解釈を踏まえ、明確に違憲論を主張しました。論理と知性において弱者となった安倍晋三とその一派は、「窮鼠、猫を噛む」で必死になって最高裁の砂川判決にすがりつき、さらに墓穴を掘っているようです。この窮鼠をさらに追い込め徹底的に打ちのめすために、国民の「戦争法案反対!」の声をもっともっと大きく強く、あげていかなければならないと思います。 

 

国会やメディアでの戦争法案に関する憲法論争を聴きながら、古関彰一著『平和憲法の深層』(ちくま新書 2015/4刊)を読みました。本書は、日本国憲法の制定過程を明らかにし、とりわけ「平和条項」がいかにして誕生したかを、既存の文献を読み返すなかで詳細に語っています。

憲法九条の「戦争の放棄」は、GHQの憲法案に基づきますが、九条に「平和」が加えられたのは、国会の審議過程で社会党議員が中心となって追加修正したことが、明らかにされます。その「平和」とは、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という九条1項のはじめの文節です。「平和条項」が「押しつけ」でなかったことは、明確です。では、「戦争の放棄」はGHQの「押しつけ」ではなかったのか。

日本統治のために天皇制存置を前提にしたGHQと、「国体護持」をはかりたい日本政府との思惑は一致していました。そこでGHQは連合国対策として、天皇制存置のため象徴天皇制を、昭和天皇の免責のため「戦争の放棄」を憲法案とし、それを日本政府が受け入れたのです。これが、九条「押しつけ」の歴史的経過です。憲法第九条が昭和天皇を免責し天皇制を存続させた、ことが解明されます。

では、日本の安全をどう守るのか? マッカ―サーの構想は、沖縄米軍基地の永続化でした。それはまた、昭和天皇の意思でもあったことは、すでに明らかにされています。著者は言います。「マッカーサーにとって「戦争の放棄」とは、沖縄に軍事要塞化を強い、本土のみに適用された憲法で「戦争の放棄」を可能にした、と見ることができる。いっぽうで、沖縄の基地化こそ、本土における「平和と民主主義」の限界を示すものであった。」まさに、「本土に平和を、沖縄に基地を」でした。このことは、マッカーサー=天皇による昭和の「琉球処分」と言えるのではないでしょうか。平和憲法を是とする者も否とする者も、こうした平和憲法の深層に潜む歴史的事実を、厳粛に受けとめなければなりません。 

著者はさらに、制憲議会となる戦後初の衆議院選挙において、米軍統治下の沖縄県民が選挙権停止であったことについて、「日本国憲法は、沖縄県民をその出発点から論外の存在としてきた」と指摘します。その憲法三九条案(日本国憲法四三条)には、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」とあります。日本政府および議会は、制憲議会選挙に参加できなかった沖縄県民を「全国民」ではないと判断したのではないか、と痛烈な皮肉を込めて指摘しています。

本書の核心部分は以上のとおりです。このほか本書では、日本国憲法制定過程について多面的かつ詳細に検証され、「GHQからの押しつけ」だけでは説明しきれない、当時の政治家(左右を超えた)や憲法学者、あるいは在野の自由民権研究者たちによる真摯で熱い「日本国憲法」論議を垣間見ることができます。こうした日本国憲法の制定過程を詳らかに知ることによって、沖縄の基地化という戦後の「平和と民主主義」の限界を自覚しつつも、GHQ案を日本人自らが主体的に修正を加え、画期的な普遍性をもった憲法を作り上げていったことに、いまあらためて日本社会に住む一員として、大きな誇りと感銘を受けます。

 

最後に、元沖縄県知事・大田昌秀氏の体験記を引用します。沖縄の基地化を前提にできた日本国憲法を、沖縄の人たちはどのように受容したのか。大田氏の青年期の記憶が鮮烈です。

学業半ばで沖縄戦に動員された大田は、623日の敗戦後、最後の激戦地・摩文仁海岸で無数の死骸とともに3か月近く、敗残兵として過ごした後、捕虜収容所へ収容されます。

「収容所を出て再生をはかったわたしが、心に決めたことは、余生を可能な限り「人間らしく生きる」ということであった。だが、食うのが精一ぱいの〝非人間的″な生活を余儀なくされていたとき、たしか47年の夏ごろだったと思うが、本土から密航船で新憲法の写しがもたらされた。文字どおり活字に飢えている時で、師友は争って一字一句それをノートに写し取っていた。私も、借用してノートした。それには、わたしたちに再生の手がかりを与える文言に充ちていた。人間らしく生きるのに核となる理念がいくつもあった。わたしにとっては、すべてが目新しく心に沁みるものばかりであった。                   

軍事基地下の殺伐とした環境のなかで、最低の生活を送っていた私たちにとって、新憲法の理念はいくらか誇張して言えば、その後の人生を規定したといえそうである。おそらくこうした経験は多くの沖縄県民にとって共有のものだろう。それだけに、新憲法はやすやすと捨て去れないものがある。・・・

思うに、沖縄県民が「平和憲法のもとへ帰る」というのは、それが日本本土の憲法だからというのでなく、あるべき祖国の、いな人類に普遍性をもちうる憲法だからである。」(大田昌秀稿『沖縄と日本国憲法―「平和憲法」下への復帰は幻想か―』「世界」69/6号)

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