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2015年6月22日 (月)

「沖縄慰霊の日」をまえに沖縄戦の真実を読む

 明日6月23日は、沖縄慰霊の日です。70年前のこの日、沖縄守備隊である第32軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が、摩文仁の軍司令部地下壕内で自決し、守備軍としての組織的抵抗は終わりました。しかし、その後も米軍の苛烈な掃討作戦のなか県内各地で散発的な戦闘はつづき、9月7日の降伏文書調印による戦争終結に至るまで、多くの犠牲者を出しつづけました。史実として沖縄戦終結の日は9月7日ですが、沖縄では、沖縄戦の戦没者を慰霊し平和を祈る日として、6月23日を「沖縄慰霊の日」と定め、毎年記念行事を行っています。「沖縄慰霊の日」は、沖縄県民とともに本土に住む私たちが、沖縄戦の記憶を未来の世代につないでいく、大切な記念日です。そして、犠牲者たちの現代人へのメッセージは、「日本軍は住民を守らなかった」という沖縄戦に関する核心的な史実です。

 30歳をすぎた初年兵・渡辺憲央陸軍2等兵の沖縄戦体験記(『逃げる兵 高射砲は見ていた』文芸社2000/5刊))を読みました。著者は、地獄と化した沖縄戦を、逃亡兵・米軍捕虜として生き抜き、この沖縄戦の悲惨な真実を、語り継がねばならない、と決意しました。 本書は、召集された日本兵の立場から、沖縄戦を追体験したものです。住民の証言と同様、極めて貴重な体験記です。

 1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸し、読谷村の飛行場占拠に向かいます。その直後、著者らは、北部国頭方面へ避難する老若男女の群れに出会います。
 「男たちは天秤棒で持てるだけの家財道具を担ぎ、女たちは頭上に食糧の籠をのせ、両足をゆわえた二羽の鶏を首にかけ、両手に世帯道具を提げている。子どもたちも背丈ほどの荷を背負い、縄をかけた山羊を引きずっていた。」
  一方、著者の属する高射砲隊は、大隊長から「戦いは持久戦となる。わが独立高射砲第27大隊の名誉にかけて、一弾で敵の戦車一輌を破壊し、残りの兵は急造爆雷を持って肉弾で敵戦車を撃滅せよ。天皇陛下万歳」との檄を受けながら、敵を迎え撃つ準備に追われました。ある日、土方作業に駆り出された大隊本部の壕で見たものは、軍規も風紀も乱れ切った将校たちの姿でした。
 「本部指揮班は酒宴の真っ最中であった。大隊長の横にひかえているのは、去年の秋、慰問に来たとき琉球舞踊を見せてくれた乙姫のトヨ子である。色は少し黒いが目鼻立ちの整った美人で、あの時以来大隊長のお抱えとなり、辻遊郭が空襲で焼け野原になったあと引きとられて来たそうだ。・・・大隊長専用の個室を作るため私たちは岩盤を砕き、石塊をモッコに入れて外に出す作業を州やくり返した。」

  日本軍は、壕などに陣地を構築して持久戦に備え、米軍は空爆と艦砲射撃に加え戦車隊で日本軍陣地を攻撃しました。両軍の攻防は熾烈となり、多数の死傷者を出しました。第32軍首脳は、5月下旬、司令部のある首里を撤退し南部へと転進、摩文仁に新しい司令部を置きました。著者たちの中隊も、沖縄本島南部・具志頭への転進を命じられました。この南部への転進途中の日本軍は、次のような悲惨な状態にありました。
  「私の横で片腕をもぎ取られた赤川が、なくなった肩口に石の詰まった雑嚢をくくりつけ、ひょっこり舞い戻ってきた。赤川は、「病院が解散すると言うので逃げ出して来たんじゃ。歩けん奴は恩賜の牛乳だと騙して、青酸カリの入った粉ミルクを飲ましたんじゃ」といった。私は石の詰まった雑嚢を下してやろうと手をかけると赤川は、「待ってくれ。それがないと重心が保てなくて、真っすぐに歩くことが出来ないんじゃ」といいながら、飯盒の蓋と竹の箸を差し出して「渡辺、すまんが蛆をとってくれんか」といった。汚れた布をめくると丸々と太った蛆が重なり合ってうごめいていた。私は群がっている蛆を払い落とし、次に一匹づつ箸でつまみ、飯盒の蓋に入れたが、すぐにいっぱいになってしまった。赤川は私の顔を見るたびに、「すまんが蛆をとってくれんか。蛆が膿を食っている間はいいんじゃが、膿がなくなると肉を食いはじめるんじゃ。チクチク痛くてなあ」といいながら、飯盒の蓋と箸を差し出した」。
 「迫撃砲の集中射撃から逃れ、小型の亀甲墓の中に駆け込んだ。薄暗い墓の中には猛烈な悪臭が立ち込め、銀蝿がいっせいに飛び立った。暗闇になれた眼が正面奥にある寝棺をとらえた。どす黒い液体が棺の周囲に流れ出し、腐敗した死体の上に銀蝿がむらがっている。気がつくと片隅に男がひとり、飯盒の飯をむさぼるように食いながら、私たちの方をジロリと見た。敗残兵にちがいない。もはや人間であることを放棄した野良犬のような目つきであった」。
  「壕内の食糧は底をついていた。わずかしかない食糧を食いのばすには、壕内に残っている兵を外に出すしかなかった。その夜から、三人一組の斬込隊が編成された。斬込隊に指名された兵隊たちは天皇陛下から下賜されたタバコが一本ずつ与えられ、深夜、出撃していった。が斬込とは名ばかり、これが口減らしの作戦であることは誰の目にも明らかであった。もとより彼らに戦闘能力があるはずがなく、彼らはその日から、見捨てられた敗残兵となって、沖縄の山野を彷徨うことになったのである」。

  日本軍による住民虐殺の証言も生々しい。これは著者が、戦友から聞いた証言です。
  「その夜、残存将兵は大隊長命令で小度の本部壕に合流することになり、自分で歩ける 藤島ら30名ほどの負傷兵は、野島軍曹の指揮で大度へ向かって出発することになった。だが、この時歩けない野波上等兵と幸上等兵は手榴弾で自決。自決を拒んだ中島上等兵はK班長の拳銃で射殺された。不祥事が起こったのはその矢先である。
 ひとりの婦人が壕の中に迷い込んできた。婦人はどこから来たのか、小ざっぱりした衣類を身につけ、壕内に同居している村民のように薄汚れていなかった。それを見とがめた兵隊の中に、「おかしいぞ」という者がいた。  「米軍に頼まれて様子を見に来たんじゃないか」  するとその声に応じて奥の方から、「その女を出すな!」という命令が聞こえた。間もなく壕の奥で、「兵隊さんが私を殺す。助けてください。ヤマトの兵隊が・・・・」と女の泣き叫ぶ声が訊えた。その瞬間、女の悲鳴とともにバーンという小銃の発射音が壕内にこだました。いったい何のために撃ったのわからない。まるで行きがけの駄賃としかいいようがない。」
  古川は「洞窟内に一歩足を踏み入れたとき、彼は身の毛がよだつような思いで息をのんだ。奥行き数メートルある洞窟の中は、数え切れないほどの負傷兵で埋め尽くされ、ただ絶望的にがなり散らし泣きわめく陰惨な声が洞窟内に響きわたっていたのである。あたり一面、垂れ流しの糞尿と傷口からこぼれ落ちる蛆の群れで泥沼のようになり、猛烈な臭気が鼻をついた。死んで腐りかけた屍体は負傷兵の手から手へ次々と入口まで送られ、最後の者が壕外へ捨てた。「頼むから殺してくれ」と叫ぶ声があちこちで上がった。そのとき古川は、この地獄さながらの洞窟の中でかいがいしく立ち働いている女学生たちの姿を見た。彼女たちを指揮している若い女の先生に見覚えがあった。一年前、蚊蛇平陣地構築の際、第一高女の生徒たちとともに婦人従軍歌を歌いながら、土運びをしてくれた先生であった。古川はほんのしばらくこの先生と言葉を交わした。「ご無事でしたか」と、先生の顔に一瞬だけ笑みが浮かんだ。女学生たちは白昼も恐れず集落の井戸へ水を汲みに行き、「先生、いま○○さんと○○さんが戦車にやられました」と報告しているのを聞いた。  夕方近くになったころ、学生服を着た若い男が一人、壕の前に立った。「中に入ってよろしいですか」と学生は訊いた。「何の用だ」と機関銃隊の中尾一等兵が訊いた。「この中に親戚の者がいると聞きましたので」兵隊たちは顔を見合わせた。「お前のような若い者がどうして兵隊にならなかったのか」と訊き返した。17歳から45歳までの男子県民はすべて防衛召集兵として駆り出されていたはずである。「私は胸の病気がありましたので」と学生が答えた。「そうか、よし行け」  壕の一番奥まったところに、集落の家族たちが避難していた。そこは酸素が欠乏して灯火が消えるほど息苦しかったが、たぶん、学生の尋ね人もそこにいたものと思われたが、間もなく出てきた。 「親類の者はおったか」中尾がふたたび訊いた。「いませんでした」と学生は答えた。中尾が学生の前に立ちはだかった。「こいつは怪しい。スパイだ」。「いいえ」学生は一瞬たじろいだ。「私はスパイではありません。助けてください」。「嘘つけ」。「いいえ、ほんとです」。 学生は殺気を感じたのか、真っ青になって手を合わせた。「よし、助けてやるから行け」と中尾が言った。「ありがとうございます」。学生が駈け出すようにその場を去ろうとしたとき、その背に中尾の小銃が鳴った。学生は声もたてずにばったり倒れた」。
  「日の暮れ方、一人の少女が本部壕に迷い込んで来た。少女は「病院が解散になってみんなと一緒に壕を出ましたが、途中、弾に当たってひとりぼっちになりました」といった。軍の病院に動員されていた篤志看護婦の女学生にちがいがなかった。壕内の兵隊たちはこの女学生の処置に困った。いま彼女を手放したら、この壕の中に敗残兵が潜伏していることを敵に察知される怖れがある。壕の奥から、「その女を処置せよ」という将校の声が聞こえた。「処置せよ」というのは、「殺せ」という意味である。だが彼女は、傷ついた戦友たちの面倒をみてくれた篤志看護婦である。一人として立ち上がろうとする兵隊はいなかった。そのとき、「俺が殺る」といって一人の兵隊が立ち上がった。私たち召集兵仲間から鬼のように怖れられていた芝山上等兵である。しかし、さすが鬼の芝山もかよわい女学生を前にしてはひるんだが。 「大隊長がお前を処置せよといっている。かわいそうじゃが、ここに来たのが災難だと諦めてくれ」と因果をふくめた。思いもかけない処刑命令に女学生がどのような反応を示したか。・・・・ 「わかりました」とうなずいた彼女は「兵隊さん、東の方を教えてください」といった。「東の方を訊いてどうするんじゃ」「天皇のおられる宮城を拝んで死にます」。  彼女は芝山から教えられた方向に座り直して両手を合わせた。芝山は、そのうしろからものもいわずに銃剣を突き刺した。切りっ先は薄い女学生の胸を貫き、身につけていた上衣を真っ赤に染めた」。

 著者が逃亡の末漂着した久米島でも、日本軍による住民虐殺がありました。犠牲者は、山野に潜伏する著者に食事を与え、また米軍捕虜となるための橋渡しをしてくれた島民たちでした。
 「通信隊に降伏勧告状を持ってきた正二郎さんを処刑することになり、処刑は集落会長や、警防団長の面前で行われた。うしろ手に縛った正二郎さんを立木にくくりつけ、二人の兵隊が左右から銃剣で刺したが、死に切れず、鹿山隊長が拳銃を発射してとどめを刺した。処刑する前、隊長は正二郎さんに向かって、「お前は、日本人でありながら降伏勧告状を持ってくる以上、覚悟はできているだろう」と引導を渡した。すると正二郎さんは涙を流しながら、「ありがとうございます」といって頭を下げたといった。」
 さらに日本の無条件降伏後の8月18日、著者たちの投降の手引きをした仲村渠(なかんだかり)明勇の一家三人が殺されました。また、区長や警防団長一家も一人残らず殺しました。こうして鹿山隊による住民虐殺は、5件22人にも及びました。著者は、自分の命の恩人たちが殺害されたことについて、次のように述懐します。
  「知らないうちに久米島はいつか恐怖の島と化していたのだった。しかも、恐ろしいのは上陸したアメリカ軍でなく、島を守ってくれるはずの日本軍であった。私はいまさらのように慄然とした。・・・・沖縄では一日一日、数知れない兵隊が死んでいき、久米島ではおのれが生き残りたいために兵隊が村民をころしていく。もはや狂気の沙汰としかいいようがなかった。」
 
 以上が、召集兵・渡辺憲央氏が見た沖縄戦の真実です。

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