« 里山を守るのはだれか? | トップページ | ジャン・ユンカーマン監督作品『沖縄 うりずんの雨』 »

2015年8月 4日 (火)

鶴見俊輔さんの死

  7月20日、鶴見俊輔さんが亡くなられました。鶴見さんは、自らの戦争体験を通して、国家を超えた市民の立場から、戦後の民主主義と平和、つまり日本国憲法の再活性化に一貫して闘いつづけた、知識人のひとりでした。私の記憶にある鶴見さんは、かつては「ベ平連」の指導的な活動家であり、そして現在は「九条の会」の呼びかけ人のひとりでした。

 1960年代末、米軍によるベトナム戦争が泥沼化するなか、世界各地でベトナム反戦運動が、激しく広範に闘われました。そして日本では、既存の革新政党や労働組合、学生組織とともに、ひろく市民を結集した「べ平連」が、ベトナム反戦運動の中核を担いました。その「べ平連」の組織と活動は、他に例をみないユニークなもので、「来るものは拒まず・去るものは追わず」と個人の自由と主体性を何よりも大切にする運動体でした。ノンポリ学生だった私は、ベトナム反戦デモに参加する際はいつも、「べ平連」の隊列の尻にくっついていきました。

 「ベ平連」の鶴見さんを見たのは、同志社大学であった「ベ平連」主催のベトナム反戦集会の場でした。舞台上には、ホスト役の鶴見さんのほか、小田実、高橋和巳、飯沼二郎などの姿がありました。骨太で豪胆な印象の小田実と繊細でナーバスな高橋和巳の、当時の人気作家のふたりが主として、参加した学生たちの討論の相手であった記憶があります。飯沼二郎は、私の尊敬する農学者のひとりで、その著作を何冊か読んでいて知っていましたが、鶴見さんについては当時、同志社大学の哲学教授で「思想の科学」の編集者だという以外、ほとんど知りませんでした。また集会では、おもに小田実や高橋和巳を前面にたて、鶴見さん自身はもっぱらホスト役に徹し、後ろに控えていた印象が残っています。これは実は、オルガナイザーとしての「ベ平連」における鶴見さんの立ち位置だったのかもしれません。

 ベ平連は、1966年にテレビの生放送で徹夜のティーチ・インをしたり、『ニューヨーク・タイムス』に意見広告を出すといった、数々のユニークな活動を繰り広げていました。そうした活動のなかで、全世界を「アッ!」と驚かせ、たちまち大きな共感の輪をひろげたのは、米軍の脱走兵援助でした。これはもちろん、誰もが何時でも関与できるものではなく、小田実や鶴見俊輔などべ平連のごく一部のメンバーが、極秘の内に進めていたものです。このたびの鶴見さんの訃報を聞いて読み返した、鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二の鼎談録『戦争が遺したもの-鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社 2004年刊)に当時の模様が語られており、鶴見さんの歴史的証言は、きわめて刺激的で興味深いものでした。この鼎談録から、脱走兵援助活動の部分を、紹介します。

 その頃、ベ平連は、「出てくるとはあんまり思っていなかった」が、脱走を訴えるビラを、横須賀でまいていた。ところが1967年秋、横須賀に寄港した空母イントレピッドから、4人の脱走兵がベ平連に転がり込んできた。東京のベ平連から「ダッソウヘイデタ」の電報をうけた京都の鶴見俊輔は、日本の軍律だと「即座に射殺」という脱走の現実にびっくりして、東京のベ平連事務所の鶴見良行に、京都の植物園の近くの「オーク」という喫茶店から電話した。「オーク」は学生客が多い店なので、「脱走兵」については「ソバ屋」という暗号を使った。鶴見良行の提案だけど、赤穂浪士が討ち入り前の晩に結集したのが、「ソバ屋」。クビを賭けて自宅に脱走兵をかくまっていた鶴見良行は、「討ち入りの気分だったんだろうな」と俊輔は語っています。鶴見良行は、3つ年下の俊輔の従兄弟で、当時、国際文化会館企画部長という要職にありました。喫茶店「オーク」は、私の通った大学のすぐ近くにあり、確か両切りのピースだったか煙草を生まれて初めて吸った喫茶店として、記憶しています。鶴見俊輔が脱走兵に関する電話をしていたころ、私もその喫茶店を利用する学生の一人だったことになります。

 さて、脱走米兵をかくまう一方で、彼らの国外脱出とメディア戦略とが並行して進められました。国外脱出については、ソ連大使館の協力を得、ソ連を経由して中立国スウェーデンに逃がすことに成功します。横浜を出たソ連船が、公海上に出た時間をみはからって、記者会見をやり、4人の脱走兵を撮った記録映画を公開しました。メディアは大騒ぎとなり、世界は驚き、ベ平連に対する賞賛と非難が激しく交差したことを、思い出します。鶴見俊輔さんが、4人の脱走兵の内の2人を、実家にかくまったときのエピソードは、いかにも鶴見さんらしい語りです。少し長くなりますが、そのまま引用します。

 

鶴見 そうです。それで私は、親父のいる東京の家に、二人の脱走兵を連れていった。親父はそれで脱走兵と握手してね(笑)。

 だけど困ったことに、その二人の脱走兵が喧嘩になったんだ。一人がもう脱走やめて部隊に帰ると言いはじめてね。

小熊 それで、どうなさったんですか。

鶴見 私は介入しない。そこで「裏切者」とか言っても、仕方がない。それでその晩は放っておいて、次の朝に、「せっかく脱走したんだから、このさい日本で行ってみたいところはないか」って聞いたんだ。そしたら、「銭湯というところへ行ってみたい」と言うんだ。アメリカにはそんなものはないからね。

上野 その銭湯ツァーに、鶴見さんはつき合われたんですか。逮捕されるかもしれないのに。

鶴見 そうだよ。だって彼らは日本語もできないし、右も左もわからないんだから。

 それで行こうということになったけど、まだ逮捕されると思っているから、自宅近くの銭湯では危ないということで、遠くの銭湯まで行ったんだ。そうしたら、まだ銭湯は朝で開いたばかりで、風呂場には日光がさんさんと射し込んでいたんだ。

 そこでお湯につかっていたら、とっても愉快な気分になってきてね。それでお湯から出て、親父のいる家まで帰ってきたら、部隊に帰ると言っていた兵隊が、「やっぱり脱走を続ける」と言ったんだ。日本の伝統に助けられたんだ(笑)。

 

 「銭湯に入った脱走兵」の顛末は、以上の通りです。鶴見さんが「逮捕」を懸念していますが、「ほんとうは日米行政協定で、米兵というのは日本の出入国管理にとらわれない存在だから、その海外出国を手伝っても日本の法には触れない」ことを、その後、鶴見さんはある弁護士から教えてもらっています。

 

 では、鶴見俊輔さんが、ベトナム反戦運動に積極的にコミットしていったのは、何故なのか? 上の鼎談での鶴見さんの証言を聞きます。

鶴見さんは、戦時中、ジャワの海軍軍属として敵の通信を傍受する任務に当たっていたとき、捕虜の殺害事件に遭遇しました。被害者は、中立国ポルトガルの植民地であったインド・ゴアの黒人でした。収容されていたその黒人は病気になりましたが、日本の軍医から治療薬を出してもらえず、殺害処分されることになりました。その殺害命令をうけたのは、鶴見さんの同僚の軍属でした。その軍属から聞いた殺害の様子は次のようだった、と鶴見さんは語っています。

「彼は毒薬とピストルを持たされて、指定された場所にその黒人を連れて行った。そこに海軍の兵隊がいて、死体を埋める穴を掘って待っていた。黒人のほうは、自分が殺されるなんて予想してなくて、病院に移させてくれると思って、感謝して連れられていった。そうして毒薬を飲ませたんだが、死なないんだ。それで生きたまま、穴に入れて土をかけたんだが、まだ死ななくて、グウグウ言ってうめいていた。それからピストルを乱射して、土の中でうめくのが止まったから、ようやく帰ってきた。」

同僚の軍属は、上官(つまり国家)の命令によって、中立国の民間人を殺しました。そして鶴見さんは、この殺害命令がたまたま、隣室の軍属に下されたものであり、自分に命令された可能性があったことに思いを寄せます。そして、この殺害事件は、鶴見さんに「人を殺すのは悪い」「殺したくはない」という思想を、植えつけました。 

「それが私がベトナム戦争に反対した、最大限の理由だったんだ。社会主義になったほうがベトナムの幸せになるとか、そういうことではない。国家にひき出されて殺す立場になるのはいやだ、それには反対する。それが理由だった。」

 この殺すことを拒否する鶴見さんの思想は、ベ平連の反戦活動を経て、その後の「九条の会」の運動に、そのまま引き継がれていきます。そして今、鶴見さんの思想は、安倍政権による安保法案を、「殺し、殺される」戦争法案(志位和夫・共産党委員長)として厳しく批判する、中心的なコンセプトとして引き継がれています。「人を殺すのは悪い」。安倍戦争法案を葬り去るための思想は、この一点に尽きる、と言えるでしょう。

亡くなった鶴見俊輔さんに対し「安らかにお休みください」と哀悼の言葉を捧げたいのですが、鶴見さんから「安らかに休んでいる訳にはいかんよ」と一蹴されそうな感じがします。戦争法案を廃案にし安倍内閣を打倒したときはじめて、鶴見さんへの哀悼の言葉を、心静かに、捧げることができるのかもしれません。

  

 

 

 

« 里山を守るのはだれか? | トップページ | ジャン・ユンカーマン監督作品『沖縄 うりずんの雨』 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/155294/62016379

この記事へのトラックバック一覧です: 鶴見俊輔さんの死:

« 里山を守るのはだれか? | トップページ | ジャン・ユンカーマン監督作品『沖縄 うりずんの雨』 »