「3・11」から5年。忘れてはいけないこと。
前回、「東日本大震災・福島原発事故
報道写真展」の予告記事を掲載しました。ポスターとチラシには、朝日新聞社から提供された写真の間に、この写真展の趣旨として「「3・11」から5年。忘れてはいけないこと。」と書きました。そこで、あらためて、2011年3月11日の直後から半年ほどの間に書かれたり語られた言葉を、読みなおしました。そして、これらの言葉から、「忘れてはいけないこと」を考えます。まず、津波被災者の手記を読みます。(月刊誌『世界』別冊2012/1/1刊から一部抜粋)
*屋根の上で見たものはそれだけではなかった。姿が見えないが、あちこちから「助けてくれー!助けてくれ!」と叫ぶ声。さらに、40~50メートル離れたところでは、40歳代の男性が家の屋根に立っていながら流されていた。
紺のジーンズに青いヤッケ、ディパックを背負い青い帽子をかぶり、私の方を見ながら右手を挙げ、西日に照らされながらにっこり笑っていた。私の姿を見て「あいつも逃げ遅れたのか」と思ったに違いない。
ちょうどその時、私の家から3軒程度離れた家のプロパンボンベが爆発し、黒煙とともに火柱が見えたので、一瞬、そっちの方へ眼をそらした直後、その家も彼の姿も無くなっていた。
(臼澤良一 岩手県上閉伊郡・63歳 )
*レジに並んでいたおっちゃんがさ、車乗ったまま流されてくるんだよね。目があっちゃってさ。なんで顔覚えてたかっていったら、レジにいたくせにあれ追加したり、弁当追加したり―とかしてて、長くてさ、腹立っててそんで顔覚えていたんだよね。波と一緒に車が流れてきて、それ見て、やべーって思った。そのおっちゃんなんかもう呆然、みたいな、終わったな、みたいな顔してて、俺はこの後どこに流されるんだろう、みたいな。(阿部一也 宮城県石巻市・29歳)
*高いところにあがる階段があって、その手すりまで辿り着きました。それで後ろを振り返ると波がもうすぐそこまで来ている。しかもその波におじいさんとおばあさんが流されてきていました。上から誰かが「助けてやれ、助けてやれ」と口々に叫んでいる。それで夢中でおばあさんをつかみ手繰り寄せました。必死になっていると上から人が降りてきてくれて手伝ってくれました。みんなでおばあさんを引っ張りあげた。それで私はおじいさんの方を向き治りました。・・・ところが波が渦を巻き始めて、引き潮のような状態になり、そのままおじいさんを連れ去ってしまい、助けられませんでした。そのときのおじいさんの顔が忘れられないのです。(斎藤武則 岩手県釜石市・60代?)
巨大津波の犠牲者は、死者・行方不明者合わせて18,457人となりました。この中には、被災手記の死者のように、目撃者に最期を看取られるように亡くなった人もあれば、ただひとり、突然の巨大津波に飲み込まれ亡くなった人もあります。犠牲となったすべての人びとが、生前、ひとりひとり異なった生活や境遇を持ち、異なった思想や感覚を持っていたのと同様に、巨大津波による死は、ひとりひとりの異なった死でした。私たちが「忘れてはいけないこと」は、「死者・行方不明者18,457人」という数字化された死ではなく、手記に書かれたような、一人ひとりの具体的な死そのものだ、と思います。
震災直後、街を襲い人びとを飲みこんでいく映像に、ただ言葉を失い茫然とした日々を送っていたとき、「瓦礫の中から言葉を」と題したテレビ番組を見出し、犠牲者に向き合う心のありようを学んだように、感じました。
死者にことばをあてがえ 辺見 庸 (作家、2011/4/18脱稿)
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことば
百年かけて
海とその影から掬(すく)え
砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畔唐菜(あぜとうな)はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで
(NHK・Eテレ「こころの時代 瓦礫の中から言葉を」2011/4/24放送から)
津波による大きな犠牲は、人びとに数知れない悲劇をもたらしました。石巻市立大川小学校の悲劇も、そのひとつでした。河口から4㎞上流の北上川沿いにあった大川小学校では、地震発生とともに生徒と教職員は校庭に避難し、その場に50分近く留まった後、北上川の堤防方向に避難しました。そのとき、10㍍を越える津波が襲いかかり、児童74人・教職員10人が犠牲となりました。何故、校庭に50分もの間、留め置かれたのか? 何故、津波が来る川に向かって、避難誘導したのか? 「先生、山さ逃げよう!」と訴えた児童もいたというなか、何故? 真相は、いまだ解明されていません。河北新報連載「もう一度会いたい」(2015/12/1-12/19)は、5年前の「3・11」の津波で3人の子どもと両親を亡くした夫婦の、震災直後と今日に至るまでの思いや姿を、100時間にも及ぶインタビューを経て記事にしたものです。大川小学校6年だった長男が、津波の犠牲になりました。私たちは、「大川小学校の悲劇」を「忘れてはいけないこと」として記憶に刻むと同時に、是非、真相解明を求めたい。
巨大な犠牲と悲劇が重なるなか、「釜石の奇跡」と呼ばれた釜石小学校の「3・11」も決して忘れてはいけない。先の「被災手記」(『世界』)から抜粋します。
*震災から2日後の3月13日午後3時2分。184名全員の無事を確認。職員室に拍手が起こった。このことは、「釜石の奇跡」とも言われている。学校管理下に全員がいたのではなく、本校のような非常に厳しい状況の学区の中で、184人が下校後ばらばらのところから、子ども達一人一人が自分の命を守りぬいたのである。
実は、子ども達が守ったのは自分の命だけではなかった。友達の命、おじいちゃんおばあちゃんの命、兄弟の命をも守ってくれた。津波到達まで30分という短い時間に。(加藤孔子 岩手県釜石市・53歳)
「釜石の奇跡」も「大川小学校の悲劇」も、あの日のほぼ同時刻に起こったことでした。何故、一方が奇跡となり他方に悲劇となったのか?
大地震が発生し巨大な津波が襲来した時、学校管理下にあった児童がほぼ全員犠牲となり、学校管理下になかった児童が全員助かったということを、私たちはどのように考えればいいのか。「3・11」から5年目にあたり、あらためて大震災が日本社会に突きつけた大きなテーマだと思います。
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