「3・11」から5年。忘れてはいけないこと。その2
巨大津波の犠牲は、圧倒的に「死者」となって表徴しました。そして、地震・津波のあと発生した東京電力福島第一原発事故の犠牲は、「死者」と同時に放射性物質の拡散による「被ばく」と「避難」として現われました。原発事故による「死亡」は、避難途中あるいは避難先での過労死や自死を特徴とし、「震災関連死」と表現されました。また「被ばく」と「避難」は、「3・11」という言葉だけではくくり切れず、「3・11後」何年つづくとも知れない、10年とも100年とも、あるいはそれ以上の時間をも蔽う犠牲となりました。
再び「被災手記」(『世界』)から抜粋します。
*姉ちゃんには大変お世話になりました。長い間おせわになりました。私の●●(「限界」?)をこしました。2011/6/10 PM1:30 ごめんなさい。大工さんに保険金で支払ってください。原発さえなければと思います。残った酪農家は原発に負けないで頑張って下さい 先立つ不孝を 仕事をする気力をなくしました。
サエコさんには、ことばで言えないくらいにお世話になりました (妻と子ども2人の名前があり)ごめんなさい なにもできない父親でした 仏様の両親にももうしわけございません」(自死した相馬市の酪農家)
*(2011年)4月3日、私は酪農家の家を回っていました。村内に長泥地区というところがあります。ここは以前、・・・民家の雨樋の下の放射能を測ったら1㍉シーベルトもあったということを聞いていました。しかし、私がその長泥地区を訪れると、子どもが外で遊んでいるし、洗濯物も外に干している。これまでと何ら変わらない様子です。
私はたまりかねて、村役場に乗り込みました。村長はいませんでしたが、議長と副議長がいました。「お前ら何やっているんだ!なんで子どもや若い人たちだけでも避難させねえんだ!」と怒鳴りました。そうしたら、彼らは「長谷川さん、偉い先生が来て、安心だと言っているじゃないか」というわけです。(長谷川健一 飯舘村の酪農家・58歳)
*私と妻は3月17日早朝、南相馬市から支給された10リットルのガソリンを頼りに、玄関先で鳴いていた子ネコを拾って避難所の中学校体育館を出た。那須高原のボランティア宅に一泊、19日未明、川崎市にいる長女のマンションにたどり着いた。月末、末娘の住む横浜市内の公営住宅の空き室にはいった。1カ月余、テレビの画面に見入り、おろおろ泣くばかりの日々。・・・そこから見えてきたものは、爆発で無惨な骨格をさらしている原発建屋とそっくりの世の中の姿だった。・・・これは事故ではない、災害でもない、れっきとした犯罪だ、と思った。(村田弘 横浜市に避難・68歳)
福島県須賀川市では、2011年3月24日朝、有機栽培をしていた野菜農家の男性が、キャベツの収穫直前「摂取制限」の指示を受け、将来を絶望して自ら命を絶ちました。酪農家は搾った牛乳を田畑にあけた大きな穴に廃棄し、肉牛農家は放射能を浴びた牛たちを殺さざるを得ませんでした。と殺を免れた牛たちは、牧場から放たれ、ひとのいなくなった人里や田畑をあてもなく彷徨しました。テレビに映し出された牛たちの姿は、悲しい風景でした。
政府と福島県は、放射性物質の拡散を予測するSPEEDIの放射能情報を故意に隠蔽し、住民に無用の被ばくを強いました。飯舘村の村民は、行政の不作為とともに多くの学者たちによる無責任な「安全」放言によって、深刻な被ばく体験を強いられました。国民に隠したSPEEDIによる放射能拡散情報がいち早く、在日米軍に報告されていたことも、私たちは「忘れてはいけないこと」でしょう。
*「100㍉シーベルトまで絶対に大丈夫」 長崎大学 山下俊一
放射線の影響は、実はニコニコ笑っている人にはきません。くよくよしている人にきます。これは明確な動物実験でわかっています。酒飲みの方が幸か不幸か放射線の影響が少ないんですね。けっして飲めということではありませんよ。笑いが皆様方の放射線恐怖症を取り除きます。(2011/3/21福島市での講演)
みなさんへ基準を提示したのは国です。私は日本国民の一人として国の指針に従う義務があります。科学者としては、100㍉シーベルト以下では発ガンリスクは証明できない。だから、不安を持って将来を悲観するよりも、今、安心して、安全だと思って活動しなさい、とずっと言い続けました。ですから、今でも、100㍉シーベルトの積算線量で、リスクがあるとは思っていません。これは日本の国が決めたことです。私たちは日本国民です。(2011/5/3 二本松市での講演)
私はこれまでずっと広島・長崎で被爆した患者を診続けてきました。今回の福島
原発の場合は、長期的な「内部被曝」の影響が心配されます。日本の政府や学者が
ついているいちばん大きなウソは、「(外部被曝線量が)年間何ミリシーベルトなら
大丈夫です」ということ。内部被曝のことを全く考慮していません。体内に入る放
射性物質は「それ以下なら大丈夫」ということはない。少しでも体内に入ったら、
長期的に被曝し続ける。微量な被曝であれば大丈夫というのは間違いです。専門家
というのは、政府の責任を隠したり、業界の利益を守ったりするために、ときに意
識的にウソをつくことがあります。中には知らなくて言っている人もいますが。正
確には、「今は大丈夫です。でも先々は病気になる可能性もありますし、何とも言
えません」と言うべきでしょう。(日刊スパ2012/1/5号記事から)
私たちが原発事故について「忘れてはいけないこと」は、勿論、以上のことにとどまりません。原発の「安全神話」のことや原子力利権に巣食う「原子力むら」のことも、記憶にとどめるべきことです。何よりも、強制あるいは自主的に避難した人びとの「3・11後」について、「忘れてはいけないこと」として深く胸に刻むべきです。三春町の武藤類子さんの「脱原発集会」でのスピーチに、耳を傾けたい。
*「私達は静かに怒りを燃やす東北の鬼です」三春町 武藤 類子
皆さん、福島はとても美しいところです。東に紺碧の太平洋を望む浜通り、桃、梨、リンゴと果物の宝庫の仲通り、猪苗代湖と磐梯山の周りに黄金色の稲穂が垂れる会津平野。その向こうを深い山々が縁取っています。山は青く、水は清らかな、私達のふる里です。
3・11原発事故を境に、その風景に目には見えない放射能が降り注ぎ、私達は被ばく者となりました。
地域で、職場で学校で、家庭の中で、どれだけの人が悩み悲しんだことでしょう。毎日毎日否応なく迫られる決断。逃げる、逃げない。食べる、食べない。子どもにマスクをさせる、させない。洗濯物を外に干す、干さない。畑を耕す、耕さない。さまざまな苦渋の選択がありました。そして今、半年という月日の中で次第に鮮明になってきた事は、「事実は隠される」「国は国民を守らない」「福島県民は核の実験材料にされる」「莫大な放射能のゴミは残る」「大きな犠牲の上になお、原発を推進しようとする勢力がある」「私達は捨てられた」。私達は疲れとやりきれない悲しみに深いため息をつきます。
福島県民は今、怒りと悲しみの中から、静かに立ち上がっています。「子どもたちを守ろう」と、母親が父親が、おじいちゃんが、おばあちゃんが。「自分たちの未来を奪われまい」と、若い世代が。大量の被ばくにさらされながら事故処理に携わる原発従事者を助けようと、労働者たちが。土地を汚された絶望の中から、農民が。放射能による新たな差別と分断を生むまいと、障害を持った人々が。一人ひとりの市民が、国と東電の責任を追い続けています。そして、「原発はもういらない」と、声を上げています。
私達は静かに怒りを燃やす東北の鬼です。私たち福島県民は故郷を離れる者も、福島の地に残り留まる者も、苦悩と責任と希望を分かち合い支え合って生きていこうと思っています。
私達と繋がって下さい。私達を助けて下さい。どうか、福島を忘れないでください。(「9.19さようなら原発5万人集会」スピーチから抜粋 2011/9/19)
*「悲惨な状況の更なる悪化を防ぐために、海水で原子炉を冷やす福島での絶望的な映像を一度でも見た人は認めるでしょう。日本のようなハイテク国においてすら、原子力のリスクを安全に制御できないということを見落としはならない、と。
核エネルギーの残存リスク・・・は一旦起きると、空間的にも時間的にも、他のいかなるエネルギー源のリスクをも遥かに凌ぐ甚大かつ壊滅的な結果を招きます。フクシマ以前、私は核エネルギーの残存リスクを容認していました。なぜなら、安全基準の高い技術立国ではそれは起こらないという人間の判断に確信を持っていたからです。ところが今それが起こりました。
・・・政治的決断はなされなければなりません。その決断とは、信頼性があり、コストが合い、環境に適合し、確実性のあるエネルギー供給体制をドイツに敷くための決断です。そのために私は今日はっきり申し上げます。私は、昨秋、われわれの総合エネルギー構想の枠内に、ドイツの原子力発電所の操業期間の延長を組み入れました。しかし、フクシマによってその考えが変わったことを、私は本日この国会の場で明言します。(2011/6/9 メルケル首相のドイツ連邦議会演説)
以上は、「東日本大震災・福島原発事故 報道写真展」を開催するにあたり、「忘れてはいけないこと」を再確認するために読み返した「3・11」直後の言葉の数々でした。この記事を書いた後、写真展会場に掲げる「主催者のご挨拶」を書きましたので、最後に挿入します。
主催者のご挨拶
世界に大きな衝撃を与えた東日本大震災と福島原発事故から、5年が経とうとしています。被災地の復旧・復興と町づくりはいまだ途半ばで、いまなお20万人の人びとが、避難生活を強いられています。とりわけ、原発事故に遭った福島県の被災者たちは、これから何十年、何百年もつづく環境の放射能汚染によって、家族は引き離され、暮らしと仕事を奪われ、豊かな自然と文化を失いました。被災地の人びとの「3・11」による犠牲は、「3・11」後の5年の年月のうえに、さらに積み重ねられつづけています。
しかし、被災地の外では、人びとが被災者や被災地に思いを寄せることは少なくなり、大震災と原発事故の記憶の風化が指摘されます。2020年東京オリンピックは、「復興五輪」の期待よりも、人材と資材の競合による復興事業への悪影響が懸念されます。また、原発再稼働と原発輸出の推進は、被災者をはじめ大多数の国民の切なる願いを踏みにじるものです。
私たちは、この「東日本大震災・福島原発事故 報道写真展」を通して、「3・11」をあらためて思い起こし、「忘れてはいけないこと」を深く、胸に刻みつづけたいと思います。
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