福島 原発震災被災地 訪問記 その1
高崎を発って3時間後、常磐道・湯の岳PAに着きました。駐車場横に、放射線情報・交通情報の看板を掲げた小さなプレハブ小屋があり、中には放射線量情報提供中と書いた液晶ディスプレーがありました。そこには、常磐道広野IC・南相馬IC間9ポイントの放射線量率が表示されていました。最高線量率4.1μ㏜/ℎの富岡IC・浪江IC中間点は、常磐道の中で福島第一原発にもっとも近いポイントです。4.1μ㏜/ℎは、年間線量換算で21m㏜/yとなり、居住制限区域に相当します。勿論、線量計の置かれたポイントは、すべて除染済みのはずです。液晶ディスプレー横のパネルには、広野IC・南相馬IC間(49.1㎞)を時速70㎞で走行した時の運転手等がうける被ばく線量が表示され、それが0.37μ㏜で胸部X線集団検診時の被ばく線量の160分の1だと記されていました。そして、別のパネルには、事故・故障発生時の注意事項が書かれ、放射性物質の溜まりやすい茂みや水たまりを避け、風のある日にはマスクをするように呼びかけています。ここには既に、放射能汚染という非日常が日常と化していることが見て取れます。 常磐道を浪江ICでおり、請戸海岸に向かいました。途中、車中で空間線量率を測ると、移動にともない0.510μ㏜/ℎ、0.935μ㏜/ℎ、0.181μ㏜/ℎと目まぐるしく変化しつづけます。請戸地区は、漁港と水田地帯からなり、大津波によって壊滅的な被害にあったところです。すでに廃墟となった住宅や店舗は片づけられ、打ち上げられた漁船や壊れた自動車も、今は姿がありません。枯草の残った広い荒野には、鉄筋コンクリートの住宅の残骸がぽつんと立っており、ここが人の住む住宅地であったことを教えてくれます。
案内人が、「浪江の二つの悲劇」について語りました。3月12日早朝、本格的な救出活動が始まろうとしたとき、原発事故のため避難指示が出され、やむなく逃げる決断を迫られました。「助けることができた人を助けられなかった」と、生き残った人びとはいまなお、悔やみつづけています。そして住民のほとんどが避難した津島地区に、高濃度に汚染された放射性物質が降雪とともに降り注ぎ、住民は被ばくしました。この二つの悲劇は、原発事故がなければ、起きることはありませんでした。ただ請戸地区の救いは、請戸小学校の子供たちが、小学校から1000m以上離れた小高い丘に走って逃げ、全員助かった、という話です。ちょうど前日に、津波避難訓練をしたところだった、という。その請戸小学校は、2階建ての校舎がすっぽり津波に襲われ、今は廃墟となって荒野にたたずんでいました。 浪江町をあとに国道を楢葉町に向かいました。途中、双葉町と大熊町の境界上に立地する福島第一原発に最も近い地点に通りかかったとき、放射能測定器は車中でこの日最高の空間線量率7.026μ㏜/ℎを記録しました。
楢葉町では浄土宗の古刹、宝鏡寺を訪ね住職の早川篤雄さんの話を聴きました。早川さんは、楢葉町の避難指示解除(15年9月)は、「復興という名の被災地・被災者切捨て宣告」だと怒りをあらわにしました。町の解除時人口7,363人のうち戻った人は440人(6%)、40代以下の人は49人(0.7%)のみ。2012年度の意向調査では町民の43%が帰還意思を示していました。早川さんは、「若者は戻らない。地域全体が姥捨て山のようになる。そしてやがて、無人化し絶滅するだろう」と暗い予測をしました。若者が戻らない理由は、原発と放射能への不安であることは、アンケート結果を見るまでもありません。早川さんは、あのとき第二原発も電源喪失の危機に直面していた。今回の事故は幸運に恵まれ、この事故程度にとどまった。次に原発事故が起きたら、今回とは比べられない悲惨な事態になるだろう、と話しました。
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