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2016年4月29日 (金)

福島 原発震災被災地 訪問記 その2

 今回の訪問では、宝鏡寺でバスを下車した以外はすべて、車窓から見ることになりました。車窓からは、ここあそこに、水田に積み上げられたフレコンバッグを見ました。除染で出た高濃度に汚染された廃棄物の塊です。バッグ1個に1トン入るところから、「トンバッグ」と称されています。耐久性も保障されていないフレコンバッグの大きな塊が、政府が帰還を進める避難指示解除地域に居残ります。Img_0175

 常磐線富岡駅跡を訪ねました。3年前の訪問時には、津波によって破壊された駅舎跡や駅周辺の商店・住宅跡がそのまま残っていました、すでにすべて撤去され、人気のない無味乾燥な広場と化していました。ただ雑草に埋もれたレールのみが、そこが鉄道駅があったことを教えてくれます。その旧駅舎跡近くに、白い覆いをかぶった無機質な建築物が立っていました。除染廃棄物減容化施設。フレコンバッグに入った除染廃棄物を、燃焼・乾燥・圧縮し、コンパクトにして放射性廃棄物中間貯蔵施設に移動させる、という。燃焼の際には、高濃度放射性物質の飛散が当然、懸念されます。そして、その中間貯蔵施設の設置場所は依然決まらず。そして政府は、2020年オリンピックに向け、避難者帰還を進めます。Img_0192 海岸線近くにバスをとめ右手南方を見ると、福島第二原発の原子炉建屋と排気筒が見えました。この第二原発は津波によって、全電源喪失の危機に直面したと、案内人は言いました。危機回避の経過は、総延長9㎞のケーブルを現場に居合わせた作業員2000人の人海戦術でつなぎ合わせて仮設電源を確保、事故4日後に冷温停止に至った、という。福島第一原発事故同様の炉心溶融の可能性がありました。もし、保安要員が40人ほどしかいない土・日だったら、と思うとぞっとします。奇跡的な危機回避でした。このことは迂闊にも、今回の訪問で初めて知りました。この第二原発について、福島の人たちは一丸となって廃炉をもとめ、東電と政府は言を左右にして明確な態度を明らかにしていません。Img_0201 津波被害がなく除染の済んだ地域は、地震による瓦屋根の補修か所を除けば、どこにでも見かけることのできる普通の住宅が立ち並びます。いまは無人となった、新築間もない今風の瀟洒な住宅に、住まいを無くした家族の怒りと悲しみを想像し、胸が痛くなりました。除染済みの住宅は、よほど古い建物を除けば、屋根も壁もピカピカにきれいになっていました。ただ、除染されてもいまだ、放射性物質は消えることなく放射能をだしつづけ、住民を寄せ付けません。政府の意図する除染-帰還-復興の道筋は、容易に実現する見通しは立ちません。Img_0213  冨岡町夜の森地区。立ち入りのできる居住制限区域から蛇腹ゲートで隔離された帰還困難区域をみる。ゲートの向こう側は立ち入りが禁止され、こちら側は、立ち入り可能です。Img_0214  同じく冨岡町夜の森地区。赤い印のついたガードレールの左側が帰還困難区域、右側が居住制限区域。ガードレールの左右で、損害賠償金の金額が相異します。ガードレールのうえにエアーカーテンがあって、放射性物質の移動をコントロールしている、とでもいうのでしょうか。損害賠償金の相異は、避難中の住民の間を、微妙に切り裂きます。
 私たちは最後に、Jヴィレッジをひと回りしました。広大な敷地には、原発作業員の自家用車が多数駐車していました。人目につく道路の十字路には、原発作業員を不当労働行為から守るための共産党のポスターが張られていました。古いポスターのうえに新しいポスターが重ねられており、いまなおこのポスターの必要性が減じていないことを、推測させました。Img_0216

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