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2016年9月27日 (火)

加藤周一「青春ノート」と『チボー家の人びと』

 8月13日深夜、NHK・ETV特集は、『加藤周一 その青春と戦争』を放映しました。番組は、加藤周一の遺稿のなかから発見された8冊の大学ノートに書かれた日記-1937年から1942年に書かれた学生時代の日記-を中心に、制作されたもの。ETV特集の健在ぶりを強く印象付けられた、秀逸な番組でした。

 今年の春、かつて加藤周一も在籍した立命館大学は、遺族から寄贈された2万冊の蔵書と1万ページの手稿を収めた「加藤周一文庫」を、開設しました。それら数多くの遺稿のなかから、日中戦争がはじまった1937年から太平洋戦争勃発翌年の1942年まで書きつづけられ、加藤の「青春ノート」ともいうべき8冊の日記が、発見されたのです。番組は、この「青春ノート」を読み下しながら、加藤の戦争に対する眼差しを、追跡します。

 1940年9月、日独伊三国同盟締結。その頃、加藤はフランスのマルタン・デュ・ガールの長編小説『チボー家の人々』をノートに翻訳しながら、迫りくる戦争を予感し、次のように記します。
 「大事件はいつも、前触れなしに突然、平和な何ごとも予期していない社会を、混乱の中に投げ込む。それまでは、時はいつもながら静かに、戦争の前の日も、空の美しく晴れ、子どもたちの戯れているうえを流れ去る。恋はささやかれ歓楽は歌われ、平和は教会の鐘の音に込められているのだ。」「私は1914年戦争を舞台にしたある長編小説を読みながら、しきりに現代を思い、歴史は繰り返すの感を、深くした。1940年はいかに、1914年に似ていることか。現代は何度絶望したら、許されるのか。1914年以降、20世紀は廃墟のうえに、絶望と痛恨との日々を送った」。
 
 『チボー家の人々』は、1922年から1940年まで18年かけて発表されたフランスの大河小説。第一次世界大戦前後のヨーロッパを舞台に、カトリックの富裕なブルジュアであるチボー家の長男アントワーヌと次男のジャック、そしてジャックの友人でプロテスタントの家庭に育ったダニエルの3人の少年たちの青春を中心に、大戦期ヨーロッパの社会と思想を描きます。『灰色のノート』『少年園』(1922年)、『美しい季節Ⅰ、Ⅱ』(1923年)、『診察』(1928年)、『ラ・ソレリーナ』(1928年)、『父の死』(1929年)、『1914年夏Ⅰ~Ⅳ』(1936年)、『エピローグⅠ、Ⅱ』(1940年)の8部13巻(白水Uブックス版)からなります。マルタン・デュ・ガールは1937年、『1914年夏』を評価されノーベル文学賞を受賞しました。加藤周一が日記に書いた「ある長編小説」は、『チボー家の人々』第7部の『1914年夏』だった筈です。
 
 私は高校時代、友人のひとりが『チボー家の人々』について熱く語っていたのを、懐かしく思い出します。文学青年でなかった私は、この大部な本を手に取ることもなく、ほとんど記憶の外に置いて今日に至りました。そして今夏、上記のETV特集によって半世紀ぶりにその書名が記憶によみがえり、遅まきながらも、高崎市図書館から全13巻を借り、ほぼ1か月をかけて8部13巻を読み終え今、深く感動にひたっています。

 加藤も読んだ『1914年夏』4巻が、何といっても圧巻です。1914年6月28日から同年8月10日までの40数日間の出来事が、4巻1,300頁余のなかに克明に描かれます。6月28日は、第一次世界大戦の原因となったオーストリア皇太子夫妻暗殺事件のあった日。オーストリア政府は、この暗殺事件をセルビアに対する軍事行動の絶好の口実として利用します。この戦争の危機に際し、第2インターナショナルで反戦活動に取り組むジャックは、ヨーロッパ各国の労働者の団結と同時ゼネストで戦争阻止をはかろうと模索します。しかしインターナショナルに結集した仲間の中には、戦争こそ帝国主義打倒の絶好の機会だと考える者もいます。
 7月23日、オーストリアは、セルビアに対して最後通牒を突き付ける。
 7月26日、オーストリアは、セルビアの国交断絶。
 7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告し、局地戦が始まる。
 オーストリアがセルビアに侵攻すれば、セルビア支援のためロシアが立ち上がり、ロシアの動員は、ドイツの動員を誘発し、そしてフランスの動員へと連動していきます。英・仏・露三国協商対独・墺・伊三国同盟の間の全面戦争、第一次世界大戦の勃発。ヨーロッパはこうして、日一日と破局へと進む一方で、ヨーロッパ各国のプロレタリアの抵抗運動が盛り上がっていきます。フランス社会党のジョーレスは、ユマニテ社を拠点に反戦、反植民地政策、反労働者階級圧迫を掲げ、ヨーロッパの労働者階級の団結による平和回復を呼びかけていました。
 7月29日、ブリュッセルの労働者大会には5000人以上の群衆が結集。
 「この晩、ブリュッセルは、まるでヨーロッパの平和の首都になったとでもいうようだった。《これでよし》と、ジャックは思った。《これで平和は救われたんだ! 世界のいかなる力をもってしても、このしがらみをくつがえすことはできないだろう! この大衆がひとたび立ち上がれば、ぜったい戦争はできっこないんだ!》」。しかし、・・・・・
 7月31日、ジョーレスが愛国主義青年によって暗殺。
 8月1日、フランス政府は、国民に総動員令発令。
 フランス国内の空気は、一気に愛国的好戦気分に満たされてしまう。
 「《愛国主義者》たちの一味は、おどろくべき速度でその数を増し、いまや闘争は不可能のように思われていた。新聞記者、教授、作家、学者、インテリの面々は、みんな、われおくれじとその批評的独立性を放棄し、口々に新しい十字軍を謳歌し、宿敵に対する憎悪をかき立て、受動的不服従を説き、愚劣な犠牲を準備することにいそがしかった。さらには左翼の新聞も、民衆のすぐれた指導者たちまで、― そうした彼らは、ついきのうまで、その権威をふりかざして、このヨーロッパ諸国間のこのおそるべき紛争こそ、階級闘争の国際的地盤における拡大であり、利益、競争、所有の本能の最後の帰結であると抗議していたではないか ― いまやごぞって、その力を政府ご用に役立たせようしているらしかった」。ジャックは、胸刺されるような無力を感じながら考えます。「事はきわめて大がかりに準備されていたのだ……戦争というものは、神がかりにかかった国民がいなければできるものではない。まず、その手初めが心の動員だ。それさえすんだら、人間の動員なぞ、まったく物の数でもないんだ!」。
 ジャックは打ちのめされながらも、しかし、決死の覚悟で徹底的な戦争反対のために戦う決意をした・・・・・・・。 
 

 加藤周一は、1940年の日本の在り様を、ヨーロッパの『1914年夏』に見出したのです。そして、「青春ノート」に次のように記しました。 

 「K君が朝、大学の裏門をくぐったところで、無造作に話しかける。「とうとうやったね」。T教授が授業の後、手術台に手をかけながら、医学生の覚悟を促す。「始まりましたね。こういう緊張したところで、勉強するのも男子の本懐ですかな」。皆がそれを話題にする。街ではラヂオの前に人が集まって、ニュースを聞いている。ちょうど相撲の放送を聞く人びとの群れのように。しかし、それよりも落ち着いた静かさで、もっとも静かなものは空である。今日の冬の空は、青く冷たく澄んでいる。水のように静かに。ベルレーヌの聖なる静寂を思わせる」。 

  いまTVのニュースでは、首相が国会における所信表明演説で、領土、領海、領空の警備にあたっている自衛隊員、海上保安庁職員、警察官を声高く称え、それに呼応して自民党国会議員全員が、立ち上がって拍手をつづけた、と伝えました。国会は、異様な雰囲気に包まれました。愛国主義の槌音が、国会のなかに響きわたりました。はたして、2016年は、1914年や1940年の轍を踏むことにならないのでしょうか? 

 

 

 

 

 

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