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2016年10月 3日 (月)

チェルノブイリからの伝言 ― チェルノブイリ事故30年・福島原発事故5年

Images_2  人類がふたたび、チェルノブイリ原発事故の悲劇を繰り返してはいけないと、事故に遭遇した犠牲者の悲しみと衝撃を、世界と未来に伝えつづける人びとがいます。そのひとり、ベラルーシのノンフィクション作家スベトラーナ・アレクシェービッチ。福島原発事故から5年たった今、あらためてチェルノブイリからの伝言に、耳を傾けたい。

❇スベトラーナ・アレクシェービッチの伝言❇
 スベトラーナ・アレクシェービッチは、事故から10年たった1996年、丹念な取材に基づいて書き綴った『チェルノブイリの祈り ― 未来の物語』(岩波現代文庫 2011年刊)を発表しました。被災地の人びとの真実の声を聞き取った珠玉のドキュメントです。アレクシェービッチは、これらの作品により、昨年(2015年) 、ノーベル文学賞を受賞しました。ノーベル賞受賞記念講演のなかから、アレクシェービッチによる「チェルノブイリからの伝言」を聞き取りたいとおもいます。(『世界』2016年3月号から)
 

 「私たち、チェルノブイリ原発のそばに住んでいたんです。私はお菓子屋さんで働いていて、パイを焼いていました。夫は消防士でした。結婚したばかりで、店に買い物に行くときも手をつないでいたほどだったんです。原子炉が爆発した日、夫はちょうど当直で消防署にいました。呼び出されて、シャツのまま、普段着のまま出かけていきました。原発が爆発したっていうのに、特別な防護服も与えられなかったんです。そういう暮らしだったんです……。おわかりでしょ……。一晩中消火活動をして、生きていけないほどの放射能を浴びました。翌朝、消防士たちは飛行機ですぐにモスクワに運ばれていきました。重い放射線の病気で……。せいぜい数週間しか生きられないだろうって言われた……。あの人は逞しいスポーツマンだったから、死んだのは最後でした。私がモスクワに行くと、ご主人は特別隔離室にいてそこへは誰も入れませんって言われました。でも『愛してるんです』と言って中に入れてくれるよう頼みました。『兵士が世話をしています。どこに行くって言うんです?』私が『愛してるの』と言っても、『もうあなたの言う愛する人じゃない。除染しなければならない物体なんですよ、わかるでしょう』とわたしを説得しょうとします。私は同じことを何度も繰り返していました。『愛してるの』『愛してるの』って。夜中、消防階段をのぼってあの人のところへ行ったり……そうでないときは、夜中に入れてくれるよう守衛さんにお金を渡して頼んだりしました……。あの人をひとりにしておけなかった。最後まで一緒にいたかったのです。あの人が亡くなってから……何ヵ月かして女の赤ちゃんを産みましたが、たった数日しか生きられませんでした……。ふたりしてあんなに待ち望んでいたのに、私があの子を殺してしまった……。あの子が私を救ってくれたのです。放射線をぜんぶ自分に引き受けて。あんなにちっちゃな身体で……。おちびちゃん……。でも私はふたりとも愛していました。愛でもって人を殺すなんてできるのかしら? 愛と死ってなんで隣り合わせなんでしょう? いつも一緒。だれか説明してくれるでしょうか? お墓の前でひざまついています」 

 記念講演で「ふたつ目の声」として紹介されたこの女性は、『チェルノブイリの祈り』冒頭に出てくるチェルノブイリ原発事故で被ばく死した消防士の若い妻です。医師や看護師から、夫のことを致死量の4倍に「汚染された放射性物体」と形容され、近づくことを厳しく禁止されました。そして「あなたのご主人は英雄であり、もう家族のものではない。国家的な人物で、国家のものなんです」と説き伏せられました。これがチェルノブイリのひとつの現実でした。
 はたして、福島ではどうたったのか? 爆発直後、事故収束に当たった消防士や東電社員および下請け企業の社員たちの被ばくが気になります。彼らのうち、被ばくが原因でガンになったと
労災認定されたのは、二人に過ぎません。しかしこの人数でもって、福島事故の被ばくの過小性を信じることはできません。原発労働者たちは、被ばく→発病を自覚したとしても、そもそも労災申請をしないケースが多く、あるいは申請してもほとんど労災認定されない、という構造にあるからです。労災認定数は被ばくの実態を明らかにはしません。当時の福島第一原発の吉田元所長の場合は、どうだったのか。事故から2年後の夏、吉田元所長(58歳)は食道がんで亡くなりました。事故前年の人間ドックでは健康体だった吉田元所長が、事故後9ヶ月間にわたり、事故収束作業の現場で陣頭指揮にあたっていたことは、周知のことです。吉田元所長の死について、東電は「吉田元所長の死と被ばくとの直接的な関係はない」と公式発表しました。背景に、チェルノブイリ原発事故において「被ばくとの直接的な因果関係がある」のは6000人ほどの小児甲状腺がんの発症だけだ、という国連やIAEAの公式認定があるからです。それ以外は、「直接的な因果関係がない」という訳です。福島においても、チェルノブイリのアレクシェービッチに導かれ、『フクシマの祈り』が書かれることが期待されます。
 記念講演の「1990-1997年」と表題されたなかで、アレクシェービッチは次のように語ります。
 

 「長い間チェルノブイリのことは書きたくなかった。チェルノブイリについてどう書けばいいのか、どういう方法で、どういうアプローチをすればいいのか、わからなかったから。ヨーロッパの片隅で忘れられた私の小さな国。この国について、以前は世界のだれもほとんど聞いたことがなかったのに、その名を突然だれもが口にするようになり、私たちベラルーシ人は「チェルノブイリ人」となった。私たちは世界で初めて未知のものに触れたのだ。はっきりしたことがある。つまり、共産主義、民族主義、新興宗教といった人類への挑戦の他に、さらに私たちの行く手に立ちはだかるものがあるということ。それは、無慈悲で全世界的だけど、今のところまだ目に見えない挑戦だということである。チェルノブイリ事故の後、何かの扉が少し開いたらしい。
 記憶に残っているのは、タクシーに乗り、ハトがフロントガラスに当たったとき、年とった運転手さんが絶望したように悪態をついたことだ。「一日に二、三羽、鳥が落っこちてきて死んでいるっていうのに、新聞は『状況はコントロールされている』なんて書いていやがる」 
 町の公園では落ち葉が掻き集められ、郊外に運び去られて埋められた。汚染された場所から土が削り取られ、これまた埋められ た ― 土の中に土を埋めたのだ。薪も草も埋められた。だれもが少し気がおかしくなったような顔をしていた。年寄りの養蜂業者がこう話していた。「その朝、庭に出ると、何か馴染んでいる音が足りないような気がした。ミツバチが一匹もいない……。ミツバチの羽音がまったく聞こえないんだ。一匹もいない!何だって? いったいどうしたんだ? 翌日もミツバチは外に出てこない、三日目もだ。それからようやく原子力発電所で事故があったと知らされた。原発はすぐ近くだっていうのに、俺たちは長いこと何も知らなかったんだ。ミツバチは知っていたのに、俺たちは知らなかったんだよ」。・・・・・・
 私は目の前で、チェルノブイリ以前の人間が「チェルノブイリ人」に変貌した。
 放射能というのは、見ることも、触ることも、臭いをかぐこともできない。そんな知っているようで知らない世界が私たちを取り巻いていた。私が退避圏内に入るとき早口で説明されたのは、「花を摘んではいけない、草むらにすわってはいけない、井戸の水を飲んではいけない」ということだった。死がそこらじゅうに身を潜めていたが、これまでの死とは違う何か別の死だった。新しい仮面をつけた死、見知らぬ外見をした死。戦争を経験したお年寄りたちはまた疎開することになったが、空を見上げて言った。「お日さまが照っている……。煙もなければガスもない。銃撃もない。なのに、これが戦争なのか? 避難民にならなければならないなんて」・・・・・・
 

 以上が、スベトラーナ・アレクシェービッチのノーベル賞受賞記念講演におけるチェルノブイリに関する部分の要約です。アレクシェービッチは、チェルノブイリ事故から10年経った時、人びとがこの事故のことを、過去のことだとして忘れたがっている、と『チェルノブイリの祈り』に書きました。そして、「大きな歴史」が見逃している「見落とされた歴史」について記録したのだと述べます。それはまた、過去の経験がまったく役に立たない別世界のこと、ある意味では「未来のことを書き記している」とも書きました。しかし、1996年にこう書いたアレクシェービッチは、その15年後に、世界第3位の資本主義国日本で、チェルノブイリ事故に匹敵する深刻な原発事故が起こるとは、よもや思わなかったのではないでしょうか。福島事故直後に日本の友人に寄せたアレクシェービッチの手記が、そのことを窺わせます。 

 「広島、長崎のあと、チェルノブイリ事故のあと、人間の文明は別の発展の道、非核の道を選択すべきだったのではないだろうか? 原子力時代を脱却すべきだ。わたしがチェルノブイリで眼にしたような姿に世界がなってしまわないために、他の道を捜すべきだ。誰もいなくなった土地、立ち並ぶ空き家、畑は野生の森に戻り、人が住むべき家々には野生の動物たちが住んでいた。電気の通っていない電線が何百と放置され、何百キロもの道は何処にも行き着かない。テレビをつけると日本からのレポート。福島ではまた新たな問題が起きている。
  わたしは過去についての本を書いていたのに、それは未来のことだったとは!」
 

 最後に、『チェルノブイリの祈り』のなかに、さりげなく挿入されていた、被ばく後のチェルノブイリでささやかれた「小話(こばなし)三題」を紹介します。 

*チェルノブイリの女性が二人話していました。「いまじゃ私らみんな白血病だってよ」「ばかばかしい! わたしゃ昨日指切ったけど、赤い血が出たよ」
*アルメニアのラジオに質問が来た。「チェルノブイリのりんごを食べてもいいでしょうか」。答え「よろしい。ただ食べ残しは地中深く埋めるように」
*またひとつ。ウクライナのおばさんが市場で大きなりんごを売っている。「りんごはいかが、チェルノブイリのりんごだよ」。だれかがおばさんに教える。「おばさん、チェルノブイリっていっちゃだめだよ。だれも買っちゃくれないよ」「とんでもない、売れるんだよ。姑や上司にって買う人がいるんだよ」

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