チェルノブイリからの伝言 ― 広河隆一の写真記録集から ―
「ノーモア・チェルノブイリ」の悲願を胸に抱き、事故に遭遇した犠牲者の悲しみと衝撃を、世界と未来に伝えつづけるひとりの日本人がいます。フォト・ジャーナリスト広河隆一。広河氏は、スベトラーナ・アレクシェービッチの「個々の人間の記憶を残すことが大切」というメッセージを受け、何が失われたのかを心に刻むためチェルノブイリを訪ね、写真を撮りつづけてきました。今年の春出版された広河隆一著『写真記録 チェルノブイリと福島 人々に何が起きたか』(デイズジャパン16年3月刊)から、広河隆一の伝言を聞き取ります。 (ズイコバ・アレクサンドラ10歳。鼻の肉腫で繰り返し手術を受けている。イゴフカ村、ベラルーシ。2009年 同上『写真記録』から)
広河氏が、チェルノブイリで30年、福島で5年のあいだ原発事故を取材しつづけて得た核心的な教訓は、「加害者は必ず被害を隠す」ということでした。1986年のチェルノブイリ事故から3年目、広河氏は被災地を訪ねました。そのひとつ、フリスチノフカ村では、原発事故後春の作付けと牛乳を飲むことおよび子供の居住は禁止されましたが、住民の居住は許されていました。しかし、広河氏が空間線量を測定すると、原発から3㌔地点のプリピャチ市とほぼ同じ値を示しました。住民の多くが、その後、村を離れました。福島県飯舘村でも、政府から派遣された専門家や村当局の「避難の必要はない」という判断のため、ほとんどの住民が1か月以上の間、高濃度に放射能汚染された村に、止まりつづけました。
1989年時点で、広河氏は「病気があらゆる場所で牙をむいていた」のを目にしました。ベラルーシやウクライナでは、医師や市民が、小児甲状腺がんはじめ、あらゆる病気の多発を訴えていました。しかし、IAEAやICRPの専門家(そのなかに重松逸造氏がいた)は、これらの訴えを踏み潰しました。翌4年目に、小児甲状腺がんが急増しました。福島県の小児甲状腺がんおよび疑いの子どもたちは、2016年9月14日に公表された県報告書では174名となりました。福島県は、「子どもたちの甲状腺がんは放射能が原因ではない」と発表しました。
福島原発事故の時、日本では安定ヨウ素剤を配りませんでした。広河氏はこのことを、ウクライナの医師たちに聞きました。すると、「知っています。それをはじめて聞いた時、本当に驚きました」「チェルノブイリ事故の後に私たちが安定ヨウ素剤を配布しなかったことをあれほど問題にした日本の医学者たちが、何故日本の事故の時には安定ヨウ素剤を配らなかったのか、まったくわからない」「なぜ福島はチェルノブイリから学ばなかったのだろう?」と言いました。事故直後、福島県放射線健康リスク管理アドバイザーに就任した山下俊一氏は、「今のレベルならヨウ素剤投与不要」としていましたが、その後、SPEEDIの結果を見て前言を翻し、ヨウ素剤投与は必要だった、と言いました。
取材時にキエフの内分泌研究所で、30歳前後の女性が3人、手術後の包帯を首に巻いていたのを見た広河氏は、「事故当時子どもだった多くの人が、28年後も甲状腺がんを発症している」と指摘しました。チェルノブイリからの警告というべきです。
著者は、日本では小児甲状腺がんはまったく未知のものであり、それを宣告された子どもたちの心の中に何が起こるのかも全くわかっていない、と強く懸念します。次の文は、「ナターシャの物語」として括られた五枚の写真とともに、この写真記録の中で最も印象深く感銘を受けた箇所です。
「(チェルノブイリの)小児甲状腺がんの手術をした子どもたちの笑顔の背景には、大変な苦しみと、その克服の日々があった。日本のように事故が「無かった」かのように装い、頭から事故と甲状腺がんは無関係と決めつける国では、子どもたちの心を救うことはできない。
この取材では、ミンスクに住むナターシャに久しぶりに再会した。手術台に寝かされたときに泣き出して、このまま自分は死んでしまうのではないかと言っていた女の子だ。こういう場合、その子にはどういう言葉が必要なのか、どうすればその子の心を助けることができるのかということを、当時誰もわからなかった。チェルノブイリでの経験が、解決法を生み出したわけではない。答えは今も出ないままなのだ。
ナターシャの場合、手術が早かったから、がんの転移はまぬがれた。彼女は二人の子どもの母親になっている。「私は甲状腺がんになり手術を受けるという困難を乗り越えて、今は元気な二人の子どもがいます。ですからその子どもたちの将来のためにも、力いっぱい生きていきたいと思います。ぜひ日本の皆様にも頑張ってほしいと心から祈っています。絶対に困難を乗り越えることができます。絶対に良くなるとおもいます」と彼女は語った。
彼女に「このような悲劇が起こらないようにするためにはどうすればいいと思いますか」と尋ねた。すると彼女は簡潔に一言、「原発を作らなければいいと思います」とこたえた。」
ベラルーシ非常事態省大臣イワン・ケニク氏の話は、福島原発事故後の日本政府の対応について、その冷酷なまでの後進性を鋭く指摘するものでした。
「私たちは事故後に何度もIAEAや国際機関に対して、(年間被ばく許容量についての)国際的な基準値を決める必要性を提案しましたが無視されました。その後、1996年になってようやく1年間に1㍉シーベルト(毎時0.23㍃シーベルト)という基準が提示されました。ところが、ベラルーシではすでに91年に採択された法律により、年間1㍉シーヘルトを超える地域からは住民に移住の権利があると決めていました。当時私たちは、この基準が厳しすぎると、西側から激しく非難されたのです。
(福島の学校施設使用基準が年間20㍉シーヘルト・毎時3.8㍃シーベルトであることについて)年間1㍉シーベルト以上になる場所で学校を開設するなど、ありえないことです。居住や学校の基準値を高く設けた人たちは、政府のお金をあまり移住に使用したくないと考えたのでしょう。」
さらにイワン・ケニク氏は、被ばくした子どもたちの保養の必要性について述べたあと、次のように語りました。「あれだけ経済大国である日本が、こうした避難や保養等をしないということは、恥ずかしいことだと思います。世界第三位の経済大国である日本が、住民、特に子どもの健康を助けられないなんて、言葉がありません。国家にとって必要なのはドルやユーロ、円ではなく、国民です。被災地の人たちを見捨てるようなことをしてはならないと思います」。
広河氏は、福島原発事故後3年目に当たる2014年3月、チェルノブイリを訪れました。この時、住民が強制避難させられたベラルーシの高濃度汚染地区やチェルノブイリ30㌔圏で、空間線量を測定しました。そして、広河氏はひどく戸惑います。
「気持ちが混乱した。なぜならチェルノブイリ原発のすぐそばや、廃墟となった村々で測定した放射能値は、時として福島県の郡山市や福島市、二本松市などの、住民が住んでいる多くの場所で測った数値よりも低かったからだ。人々が強制避難させられ、やがて廃村となり、家々が地下に埋められるという結果となった事故後のベラルーシやウクライナの当局の決断が正しいのか、それとも、今のチェルノブイリの立ち入り禁止区域の数値と同じかそれより高い数値なのに「安全」として、子どもも住むことを勧める日本のやり方が正しいのか」。
そして今、福島では避難指示が次々と解除され、帰還が勧められようとしています。しかし、戻る人びとは、一部の高齢者のみで、ほとんどの若い人びとは苦悩と困惑を深めながらも、避難先での生活を維持しつづけています。
チェルノブイリと福島の両方で、被災地の人びとへの取材活動とその子どもたちの救援活動を、粘り強く継続してきた広河氏は、この本の最後に次のように語りました。
「しかし、絶望するには早い。まだ時間があるからだ。異なった「未来」を迎える可能性がまだ残っている。原発を再稼働させるために、福島原発事故をなかったかのごとくして、子どもたちを汚染地に帰還させ、海外に原発を輸出するという今のやり方に分かれを告げ、大きく舵を切らなければならない。人間をまもるために。」
日本社会が、今とは異なった「未来」に向けて動き出す兆候が、全国各地に蠢き出しています。今年3月、大津地裁の仮処分決定によって、稼働中の原発としては初めて、関西電力の高浜原発3号機が運転停止に追い込まれました。また、7月には、鹿児島県知事選挙において、脱原発を標榜する元テレビ朝日・政治担当キャスターの三反園訓氏が当選し、電力業界に衝撃が走りました。そして現在、10月16日投開票の新潟県知事選が、原発再稼働を最重要争点の一つとして、闘われています。福島原発事故の検証と再稼働に慎重な姿勢をとる泉田裕彦知事の路線を継承する医師米山隆一氏が、自公推薦の前長岡市長森民夫氏を猛追しています。新潟県においても、是非、脱原発候補の米山隆一氏が勝利することを、心の底から強く願います。
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