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2016年12月27日 (火)

ノーマ・フィールド著『今、いかにして本気で〈平和〉が語れるか』

 札幌に住む友人から、小冊子が送られてきました。ノーマ・フィールド著『今、いかにして本気で〈平和〉が語れるか あるいは➀ひとはなぜ、掛け替えのない、はかない命を守ろうとしないのか、できないのか ②「逆さまの全体主義」に抗するために』。この長い表題の小冊子は、2015年11月、札幌市のあるプロテスタント教会で開かれた「北海道宗教者平和協議会結成50周年記念講演」の講演録です。時機を得た興味ある講演だとして、友人が送ってくれたもの。Photo             (YouTube 2015年の「11.19戦争法廃止国会前集会」から)

  この講演のキーワードは、「逆さまの全体主義」。フィールドは、現代という時代を把握するための道具として、アメリカの政治思想史家シェルドン・ウォーリンが名付けこの概念を紹介します。ウォーリンは、全体主義(ナチズム)と「逆さまの全体主義」を対比して、国家権力の無制限かつ攻撃的膨張主義の激しい欲求、という両者の共通点を指摘しつつ、「逆さま」の事例をいくつか挙げます。(シェルドン・ウォーリン稿『逆さまの全体主義 ― 企業権力に支配されたアメリカ政治の病理 ― 』 03年米ネイション誌から)
 まず、ワイマール・ドイツでは、全体主義が街頭を占拠し、デモクラシーは政府内に限られていた。これに対して、アメリカでは活発なデモクラシーは街頭にあり、真の危機は政府内にある。次に、ナチス体制では、大企業は政治体制に服従したが、アメリカでは、企業権力が政治体制に優越している。また、全体主義の推進力は、ナチスでは「生存権」というイデオロギーであったものが、アメリカでは、無限膨張的な企業権力がそれを担う。さらに、大衆に対しては、ナチスが集団のもつ力や強さ「喜びによる強さ」を付与したが、アメリカは集団的弱さや無力感を助長している。そして、ナチスが国民投票において熱狂的な賛成票を投じてくれる社会を望んだのに対して、アメリカは、だれも投票しない、政治的に動員解除された社会を望んでいる。シェルドン・ウォーリンの「逆さまの全体主義」のイメージは、以上のようなものでした。
 さて、講演者のノーマ・フィールドは、ウォーリンの「逆さまの全体主義」を踏まえ、アメリカや日本の政治に顕在化した様相を、以下のように指摘します。
  ➀ 「逆さまの全体主義」は、名も顔のない企業国家体制で、選挙、憲法、公民権、報道の自由、司法の独立などは建前としては維持されているが、大企業は、国民に課せられる義務や責任からは自由で、莫大な資本を蓄積し、やりたい放題である一方、血が通う市民は負担ばかり重く、権利は形骸化し、無力感に追い込まれている。
  ② 「逆さまの全体主義」の経済システムは、新自由主義である。「他に選択肢はない」(There is no alternativ=TINA)とした規制緩和、自由主義経済、構造改革は、サッチャー首相、レーガン大統領、中曽根首相、小泉首相と引き継がれ、作り出されたが、これがまさに「逆さまの全体主義」社会である。フィールドの「他に選択肢はない」批判は、手厳しく的確です。「TINAとは―明日の、来月の、来年の暮らしが約束されていない社会、生き甲斐など感じられない社会―そうした社会とちがったものを想像することすら禁じる思想の表現です」。安倍首相の「この道しかない」政策も、同じこと。
  ➂ 「逆さまの全体主義」における戦争は、名もなく顔もなく、つかみ所が見当たらない。「戦後」のないアメリカは、つねに世界のどこかで戦闘をつづけているにかかわらず、市民は「戦時中」を意識せずにいる。その背景には、徴兵制から志願制への政策変更がある。「敗戦に終わったベトナム戦争の大きな教訓は徴兵制は国にとって損であること。徴兵制から志願制に移行することによって、中産階級の戦争反対の芽を摘むことができた」。格差が広がり、軍隊が主要な雇用先になるとともに、民営化によって傭兵がアメリカの戦時体制を支える。
  ④ また「逆さまの全体主義」の戦争は、戦闘行為のバーチャル化によって、精神的・肉体的に傷つく生身の人間の被害を、見えにくくする。遠隔操作の無人機・ドローンによる攻撃によって、パイロットの墜落死や捕縛のリスクは消えたが、自宅から勤務するパイロットは、実際に戦闘機を飛ばすパイロットと同じかそれ以上の率で、PTSDに冒される。「標的と思しき人間を長期にわたり、コンピューター画面で身近に観察し、いやが応でも慣れ親しんでしまったあげくある日爆撃に踏み切る、というプロセスが重い負担になっている」という。
  ⑤ 福島原発災害は戦後70年が孕む問題すべてを凝縮している。
 現在福島では、原発の安全神話に代わって被曝安全神話が広められ、「保養」とい言葉や「地産地消」による給食への不安などがタブー視されている。帰還政策のなか、言葉のタブー化は自己規制の蔓延を促進する。「上からの圧力だけでなく、おなじく悩み、苦しむ者がみずからの不安から自由になるため、まわりの表現も規制してしまう。・・・被害者が、自らの被害者性を否定する、自己疎外の作用だ」。権力からの露骨な干渉ではなく、市民の内部からの自粛あるいは自主規制の作用と同じことです。「逆さまの全体主義」の特徴的に側面です。。
  ⑥ 福島原発災害の無責任体制は、戦争責任を曖昧にしてきたことに相通じ、小泉政権以降言いはやされる「自己責任」と一体をなしている。大企業・権力側の無責任体制と「自主避難」した人びとに対する「自己責任」を強要する体制は、「戦争法であれ、基地問題であれ、原発再稼働であれ、地域で声をあげることを困難にする枠組みを支えているのではないか」。これもまた、「逆さまの全体主義」の重要な特徴といえます。
   ⑦ 「従軍慰安婦」問題で右翼の攻撃にさらされた元朝日新聞記者・植村隆氏は、北星学園非常勤講師の職が危うくなった。当初植村氏をかばった北星学園は、深刻な警備費問題で、苦しい立場に追い込まれた。そして学内からは、「平穏を取り戻したい」という意見が聞こえだす。「非常勤講師にすぎない植村さんのために、常勤の教員や学生の平穏が侵されるのは不当ではないか」という声に対して、フィールドは、「平穏の条件を観ずに、ひたすら望むことは「逆さまの全体主義」を支える願望になりかねません。そして「逆さまの全体主義」が、いかにたやすく逆さまではない、「正規」の全体主義に転換しうるか、北星学園の例は鮮やかにしめしている」。
 「逆さまの全体主義」から「正規の全体主義」への転換。このブックレットは、現在、日本が全体主義=ファシズムの入り口に立っていることを、痛烈に警告します。ノーマ・フィールドの声に、耳を傾けたい。 
 

 

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