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2017年3月28日 (火)

朴裕河著『引揚げ文学論序説―新たなポストコロニアルへ』を読む

 私の知っている「引揚げ」は、学生時代に農場実習で世話になった八ヶ岳山麓の開拓村の老夫婦や、宇都宮で読書会をともにした高校教師が、旧満州からの引揚者であったこと、また、昨年100歳で亡くなった地区最長老の男性が、シベリア抑留からの帰還者であったことなどです。私にとって「引揚げ」は、無縁ではない。このことは、戦後「外地」(植民地や占領地)から「内地」への帰還者が、民間人341万人、軍人・軍属311万人、合計650万人(当時の人口の10%)という膨大な人数であったことを思えば、納得がいきます。

 しかし、著者の朴裕河・世宗大学教授は、650万人という大規模な「集団体験」であった「引揚げ」の記憶が、戦後、歴史学や社会学、あるいは文学の研究対象にされず忘却されてきた、と指摘します。著者は、「引揚げ文学」のなかに、植民地や占領地における「帝国の痕跡」を探り、戦争の記憶に止まらない「支配」の記憶を蘇らそうと、企図します。
 「引揚げ文学」とは何か。著者は、植民地・占領地体験とその後の引揚げ体験を素材とし、帝国時代の記憶にこだわりつづけた人びとを「引揚げ作家」と呼び、その作品を「引揚げ文学」と命名しました。その典型は、植民地・占領地で生まれ育ち、敗戦後、少年・少女として帰還した作家たち。日野啓三、小林勝、五木寛之、本田靖春、後藤明生、・・・・・・。実に多くの作家たちが、植民地・占領地を体験し、引揚げを体験していることに驚きます。
 本書の概要は、斉藤美奈子氏の書評(朝日新聞17/2/19)が、要領よく紹介しているので、その後半部を抜粋します。

 「引揚げ者が置かれた状況は、加害と被害が錯綜する。植民者という優越的な立場から一転、敗戦後は地獄にも似た経験をし、帰還後も日本社会は彼らを温かく迎えはしなかった。一種の「棄民」として大陸に渡った人々は帰還して再び「棄民」となった。こうした体験からある者は沈黙し、ある者は日本に背を向け、ある者は書くまでに数十年の時間を要した。 「戦後思想は、〈戦争〉を考えるほどに〈帝国〉や〈植民地支配〉について考えてこなかった」という指摘は重い。でもそれは戦後史の見直しという未来につながる重さである。」(斉藤氏書評から)

 本書は、「第Ⅰ部 総論」と「第Ⅱ部 各論」の二部編成となっており、「第Ⅱ部 各論」は、漱石『明暗』、湯浅克衛『移民』、小林勝の各作品、後藤明生『夢かたり』を例題として取り上げ、小説世界のなかから「帝国の痕跡」を拾っていく作業を根気よく続けています。著者はとくに、後藤明生著『夢かたり』についてもっとも多くの頁数を費やし、「引揚げ作家のなかでも、植民地の日常を繊細かつ生き生きと描いている点では、ほかの追随を許さない」あるいは「被植民者の敵意や植民者の不安と恐怖(「内被する植民地主義」)を描く『夢かたり』は、記憶の風化が進んでいる今日こそ、改めて読み直されるに値する」と高く評価します。そこで、後藤明生『夢かたり』論のなかで、気になったことに若干触れておきたい。それは、この部分に繰り返される「人種化」という表現についてです。
 「『夢かたり』には、一見のどかな風景が多い。しかしその背後には、人種化された朝鮮人の視線に照りかえされる不安と、支配者でありながら植民地の言葉、被支配者の身体性を身につけさせられた侵犯(審判)への恐怖が息づいている。」(p.138)
 「 「羽織、袴、白足袋に草履のいでたち」で「夏はカンカン帽をかぶって」劇場へでかける曾祖父のうしろを、少年の家の「店員の朝鮮人」は、「座ぶとんと水筒を持って従って行った。」小さな失敗を許さずに店員を容赦なくステッキで殴る曾祖父の姿もまた、民族がそのまま階級を形成していた人種化の現場にほかならない。」(p.139)
 「女狂人が町なかをさまよう風景もまた、狂人が国家によって隔離される前の〈前近代〉的風景にほかならず、「どぶ川の中へ手鼻をかむ」ような「お婆さん」の存在もまた、〈衛生〉を身につけた〈文明人〉によって人種化されるほかない風景である。」(P.141)
 この「人種化」という言葉の意味が、どうもわからない。「人種」は生物学的特徴を指すとすれば、植民者である日本人と被植民者である朝鮮人との間には、人種的な差異は認められない。あるのは、民族的特徴の差異であるはずです。「人種化」を「レイシズム」(人種差別主義)と読み替えてみればどうでしょうか。現在、日本で使われているレイシズムは、人種差別と同時に民族差別をも指しています。すると上記の引用文は、「民族差別された朝鮮人」「民族差別の現場」「民族差別される風景」となり、意味は明確となります。「帝国の痕跡」にあった錯綜した「加害」と「被害」、二重体験としての「棄民」の背後には、民族と階級による差別が横たわっていたのです。

 著者の朴裕河教授は、著書の『帝国の慰安婦』が元慰安婦への名誉棄損にあたるとして起訴されていましたが、一審のソウル東部地裁によって1月25日、無罪判決を言い渡されました。私は、『帝国の慰安婦』を「韓国の自省的・自己批判の書」として読みましたが、それは韓国の慰安婦支援運動のなかの民族主義的潮流を刺激し、かならずや強烈な反発と非難・中傷を浴びるのではないかと、懸念していました。それだけに、ソウル地裁の「表現の自由はより広く認められなければならない」などを理由とした無罪判決に、安堵しました。

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