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2017年5月 3日 (水)

植民地朝鮮を書きつづけた作家・小林勝を読む

 朴裕河著『引揚げ文学論序説―新たなポストコロニアルへ―』で取りあげられた小林勝の作品を、読みました。朴氏は、小林勝という作家について、「植民地とされた朝鮮で生まれて、43年というあまりにも短い生涯を「朝鮮」とそれをめぐる心象風景を描くことに捧げた作家であった」と紹介します。今、この作家について論じることは出来ませんが、彼の作品で表現された植民地・朝鮮についての記憶を、いくつかメモしておきたい。

「遥かに昔、この山奥へ最初はカーキ色の軍服を着た兵隊がやって来た、それは独立歩兵大隊だった、その付近を中心にしておこった暴動が兵隊の銃剣でつぶされてしまってから何年かたった。すると警察がやってきた、商人がやって来た、銀行の支店がやってきた、金貸しがやってきた、裁判所がやってきた、学校の先生がやってきた、町の朝鮮人が日本語を覚えた、そして兵隊はもういらなくなったので、居なくなった。」(『フォード・一九二七年』1956年)
 
 こうして日本人がやってきて植民者となり、朝鮮を支配するようになりました。日本人が朝鮮へ来た動機や事情は、個々人によって違っていました。朝鮮人実業学校書記で朝鮮へきて1年の大村の場合は、「郷里の小さな村での僅かばかりの財産争いでおれは兄弟にも親戚にも腹の底から絶望したんだ、もっと広い、無限に広い、自分の力の限りの生き方が出来る場処を求めて朝鮮へ脱出してきた」のでした。一方、高利貸しで来朝10年の岸本の場合は、「おれは郷里の不動産を全部処分してしまったんだよ、いいかね、一切合切を売り払ったんだよ、そうやって朝鮮へ乗り込んで来たんだ、もう後へは引けないんだからな、内地にはおれの帰って行く場所はもう何処にもないんだぜ、そしておれは、此処へおれの金をぜんぶ投資したんだ、だからどんなことがあってもおれの家と財産は守りぬかなくちゃならないんだ」(『万歳・明治五十二年』1969年)。朝鮮へ渡った日本人の動機はそれぞれ違っていても、彼らに共通しているのは、日本での生活に絶望し日本社会から脱落したことでした。そして、植民地・朝鮮に希望を見出そうとしています。
 
 では、朝鮮および朝鮮人の状況はどうだったのか。
 
 1938年ころの朝鮮の農村風景が、次のように描かれます。「稲刈りが終わると、田舎の藁ぶきの家の屋根は、乾かした唐辛子で真赤になる。西陽をうけてその屋根が燃えあがるように見える。際限もなく散る。虫のように蝶のように空中に舞う。すると、冬が来るな……冬が来たら、おれはまた、犬を連れて山の中へ行こう、と私は思った、一人で猟をしながら山の中を歩いて行こう…… 」(『狙撃者の光栄』1959年)。いかにも牧歌的でのんびりしています。幸福感すらあります。これは、日本人植民者が見た朝鮮の農村風景です。しかし、朝鮮人にはどのように見えたのか。日本内地へ渡り、苦学の末航空会社のテスト・パイロットとなり、同時に岸田静雄と改名して故郷へ戻ってきた元農林学校小使いの崔は、次のように言い放ちました。
「ぼくの頭の中にあった故郷とはまるでちがって、何もかも埃っぽくて、町は小さくひらべったくて、こんなところ内地で懐かしく思い返していたのかとばかばかしくなって、ふき出したくらいです。こんな薄汚い街には、もう何一つぼくには用事はないですよ。わざわざ帰ってくるんじゃなかったなあ。」「愚劣だね、こんなところは。ぼくは今朝、散歩をしていて、草っ原で弓を引いている男を見た。思わず笑いだしたよ。相変わらず何の前進も、何の進歩もなく、牛のように眠っては同じ生活をくりかえしているんだから。ぼくの世界はもうここにはないんだ」(『蹄の割れたもの』1969年)。 

貧しい朝鮮人家族は、栄養失調に苦しんでいました。 「李景仁の弟たちがどれもこれも痩せこけて眼玉をぎょろぎょろさせているのは、栄養失調のせいなのだ。八人家族だのに、父親は半分馬鹿で、砂防工事のもっこかつぎが出来る程度で、そんな日雇い仕事がなければ一日中家にごろごろして、みんなの隙をうかがっては、ありったけの食物を盗み食いしてしまう。だから家に居る者のだれかが、父親が盗み食いをするのを何時も監視していなくてはならない。母親は病身でずっと寝たきりで、まともに働いて七人を食わせているのは農林学校の小使いである李景仁だけだ」(『目なし頭』1967年)。 

一方、日本人は、朝鮮人の女中を雇い、高利貸しで儲け、果樹園を手に入れて将来に備えます。「農夫は言った。「日本人の家、どこでも朝鮮人の女中使っているじゃないかね?」私はにがい気持ちだった。農夫の言っていることはある程度事実なのである。月給七,八十円の者が一円五十銭か二円、いいところ三円、で女中を使っていた。・・・・・朝鮮人の農民たちにとっては、この二円が大変な収入だった。しかし、日本人の家庭でどうしても女中がいるような家なんて殆どないのだった。・・・・・ひとつにはいくらでも安く雇うことが出来るからでもあるが、何よりも朝鮮人の女中を使う快感と近所への見栄という者があったのだ」(『無名の旗手たち』1962年)。 

「先輩。ぼくはいろいろ考えてきましたがね、ひと通りのことじゃここだって一旗あげられないよ、そうでしょう。そうかといってこちとらは、先輩みたいに田舎の郡庁の一公吏として生きていきたくはないですからね。ぼくは鮮人相手に金貸しやって金をためたら、そのうち果樹園のおやじにおさまりますよ。」「この間やめたT府の商業学校の校長ね、あれは高等官でも勅任官待遇になったでしょう。校長としては位最高だ。それで引退してどうしたと思います?全財産をつぎこんで果樹園のおやじになった。とにかるもうかるそうですからなあ」(『無名の旗手たち』) 

朝鮮人と日本人、つまり植民者と被植民者の差別と格差は、災害時に端的に現れます。「町の高地には日本人が住んでいたし、町の低地には大多数の朝鮮人の家屋があったのだ。そして、実際、流れてくるものは、みな朝鮮人の家財であった。・・・朝鮮人の家はかなりが流されてしまっていた。彼等は青空の下で黙々としてあと片付けをはじめていた。」そして「数日たつと、続々と見舞いの物資がこの町に到着しはじめた。それは、新聞で被害を知った全朝鮮の日本人たちの中の、個人の知り合いや、県人会や、その他の団体からの救援物資であった。そして、それは殆ど被害をこうむらなかった高台の日本人たちの家庭へ送りこまれたのである」(『無名の旗手たち』)。 

朝鮮の植民地化は即ち、朝鮮社会の近代化あるいは資本主義化を促すものでした。明治維新で日本社会が経験した文明化です。しかし、植民者による他者からの文明化です。このことについての植民者・日本人の意識は、次のようなものでした。高利貸し岸本が自宅のガラスを割られた腹いせに語った言葉です。「町を整備して、治安をよくしてやったのはどこの誰だい、え、誰がそれをやったと思ってるんだい、おれたちは学校を作ってやった、ちくしょう、親切に農業指導もやってやったぞ、公衆浴場まで作ってやった、病院も建設してやった、ちくしょうめが、恩忘れめが、町は併合当時の姿からすっかり変わったじゃないか、一体ぜんたい誰のお陰だと思っていやがるんだ、ちくしょうめ、ちくしょうめ、鮮人め、できそこないめ、豚め、泥棒野郎の嘘つき野郎め、今頃になって独立万歳とは何ちゅう言い草だい、何ちゅう恥知らずな忘恩だ、なんちゅう卑劣きわまる泥棒根性だ」(『万歳・明治五十二年』) 

 朝鮮人の反植民地・反日独立運動に対しては、容赦ない弾圧がくわえられました。 農林学校教師の息子・須永和之は、同校小使い・崔天海が警察により拷問される場面を、のぞ

き見ています。 「ぼく、見たんだよ、だって見たんだもの」 「崔さんはほんとに悲しそうに泣いていたよ」「泣くのがあまりすごくて、崔さんが死んでしまうんじゃないかと思ったんだよ」 「崔さんがまっ裸にされて、水をざあざあかけられていたよ」 「水をかけてから加納田さんがタワシで崔さんの背中をごしごしこすったんだよ」 「水をざあってかけたら、崔さんはひらべったくなって転がってしまったんだよ」 「そしたら、誰かが、竹刀で叩いたんだよ。たくさんたたいたんだよ。頭の方もたたいたし、おしりも、背中も、足の先の方もたたいたんだよ」「そしたら、崔さんが血を吐いたんだ」(『夜の次の風の夜』1967年)。少年は、朝鮮人・崔天海の痛みを自分の痛みとして、感じ続けます。時代は、1938年のことでした。 

日本人の少年にとって朝鮮人の崔天海は、とてもいい人でした。故郷のやさしい小父さんあるいはお兄さんのような存在でした。「崔さんはぼくにすごく長い、一メートルもある、ポプラの笛をつくってくれたんだよ。加納田さん、一メートルもある笛作れる?」 「つくれないな」と加納田巡査が健康な歯をみせて笑った。「ぼおおおおって、低い音がするんだよ。ぼおおおおって、とても低い、そりゃすてきな音がするんだから」 「長いのも短いのも、おじさんはポプラの笛なんてつくれないよ」(『夜の次の風の夜』)。 

おまえが殴ったりいじめてた崔さんは、こんなことができるんだぞ、なのに、崔さんより偉いはずのお前には、何もできないではないか。少年と朝鮮人・崔との距離の近さと、少年と日本人警官・ 加納田の距離の遠さを感じます。朴裕河氏は、「朝鮮人の「崔さん」の方が少年の胸にひとつの「故郷」として位置づけられている」し、少年の感性は、「「崔さん」という他者の痛みを自分の痛みのように感じ」とっている、こうした日本人少年の感性に、「支配と被支配という、不平等な関係に置かれている国同士の人々の間における真の出会い―「交通」の可能性を見出しました。 

 朝鮮で生まれ育った小林勝が、43年という短い人生において、一貫して「朝鮮」を書きつづけたのは、日本と朝鮮の関係の未来に向けた、小林の次のような希望でした。「私の遥か前方には、未来の一つのイメージがあるのです。それは自らを完全に解放した日本人と朝鮮人が、かけねなしに真の平等対等な国家を祖国に持つ日本人朝鮮人としてあいまじり、お互いの国へ自由に往き来する姿であります。その姿を想像の中に浮かびあがらせる時、私の血はほんとうに熱くなり、空想はとめどなくひろがっていき、私はまるで酔ったようになるのです」(『チョッパリ』のあとがき 1970年) 小林勝の死後半世紀近くたった現在、この小林の夢はいまだ、見果てぬ夢のままです。 

小林勝は、「いまではほとんど忘れ去られた」(朴裕河)作家のひとりです。私は、1970年のころ、読書会の友人から譲られた『狙撃者の光栄』(1959年)を読んだことがあり、かすかに記憶を留める程度の作家でした。今回、朴裕河氏の本を読んだ機会に、書棚からこの本を取り出し、40数年ぶりに読み返しました。また、高崎市立図書館から「小林勝作品集2-5」(白川書院1975,76年刊)を借りて読みました。図書館から借りたこの『小林勝作品集』は、40年の歳月を経ている割には極めて美しく、汚れが全くありません。一巻を除き他の三巻の「しおり」の紐は、新本を買ってきたときそうであるように、ページの中に埋もれたままでした。そして、裏の見返しに添付された「貸出期間」のカードは、無記入のままでした。はたして「しおり」が本の外に出ていた一巻は、ページの中ほどに小さな昆虫をはさんだ痕跡があり、そして、「貸出期間」のカードには、「52.4.5」とゴム版が押されていました。その一巻は間違いなく貸し出され、そして他の三巻は、もしかしたら貸し出されたことが一度もないのかもしれない。小林勝が「忘れ去られた作家」だということを、強く実感しました。日本による朝鮮の植民地時代の記憶を取り戻し、日本と朝鮮の未来を構想して行くための大切な素材として、小林勝の作品を再評価し、広く読みつづけられることを願います。

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