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2017年5月17日 (水)

゜恋のハレルヤ゜が蘇る ― なかにし礼著『夜の歌』を読む

  安倍首相が「9条に自衛隊を明記し、2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と改憲派集会にビデオメッセージを寄せた日の翌日、作家・作詞家のなかにし礼さんは朝日新聞紙上で、「首相は憲法を尊重し擁護する義務を負っているのに、改正の期限を切るなどというのは大問題」だと批判しました。なかにしさんは、「戦争をしないことをうたう日本国憲法は世界一です。特に前文は人類の進化の到達点だといってもいい。世界に誇れる芸術作品」だと語りました(朝日新聞5/4)。この記事の中で、昨年発表された小説『夜の歌』のことが取り上げられ、これこそ最新の「引揚げ文学」だと思い、早速読んでみました。

 なかにし礼さんは、この小説を「がんが再発し、最後の小説のつもりで取り組んだ作品」であり「伝えるべきことは書かねばならない」と語っています。満洲からの引揚げ体験と高度経済成長下の作詞家活動が、この小説の骨格となります。それは、なかにし礼の自伝そのものです。 

  「父は40歳、母は36歳、私より14歳上の兄と7歳上の姉がいる。父と母は二人の子供を連れて、北海道の小樽から船で満洲に渡ったのは昭和8年のことであった。この頃の牡丹江は草茫々の荒野であったが、関東軍の計画通り、ソ満国境に近い軍都はみるみる出来上がり、父の醸造業は関東軍の引き立てもあって、昭和11年には2千石の石高を誇り、満洲紳士録にも載っている」。 

    中西家は、醸造業の外、ガラス工場やホテル・料亭も経営し、「満洲」で大成功を収めた有数の資産家でした。1938(13)に生まれたなかにし礼は、こうした裕福な家庭に恵まれ、ぬくぬくとした幼児時代を送りました。だから、なかにし礼の故郷意識は、次のようなものでした。
 
「私には日本という母国のイメージがうまく結べなかった。日本の学校唱歌も習ったが、そこに描かれている自然があまりに自分のまわりの景色とかけ離れているので、なんの感興もわかなかった。日本とはそんなにもいい国なのかという憧れは確かに抱きはしたが、すぐに忘れる程度のことだった。つまり私にとって満洲牡丹江こそが自分が生まれ育った故郷であり、日本という名の母国はいつかは行くかもしれないが、永遠に訪れないかもしれない夢の国だった」。
 

 植民地だった朝鮮や台湾で生まれた二世たちと同様に、「在満二世」のなかにし礼にとっても、彼の故郷は、彼が生まれ育った「満洲」であったのです。その「満洲」は、五族協和を唱える王道楽土の地であり、理想の国家でした。「目下、戦争をやっているのは日本であって満洲ではない。ゆえに満洲は安泰である」というのが当局の説明であり、この地に生活する多くの人びとの意識であったようです。だから、ソ連が「満洲」に侵攻した194589日の前日まで、牡丹江では、ダンスホールが営業していました。しかし、この日を境に、「満洲」に住む日本人の生活は、一気に戦争の渦中へと投げ込まれました。中西家の人びとも例外ではあり得ません。祖国日本をめざしての逃避行、つまり引揚げの始まりでした。  

 194589日未明、ソ連軍機は牡丹江市上空に現われ、爆弾を落としたが、迎え撃つ友軍機はなかった。民衆は牡丹江駅に集結し、列車で避難しょうとしていた。憲兵は腰の拳銃に手をかけ、叫んだ。「避難列車に乗る順番はまず軍総司令部の将官とその家族、つづいて佐官とその家族、尉官とその家族、その次に満鉄社員家族。一般人はそのあとだ」。群衆は「国民を皆殺しにする気か。卑怯者」と口々に叫び、そのあとは怒号と悲鳴で牡丹江駅は阿鼻叫喚の渦となった」。
 
 無敵であった関東軍は、百数十万の日本人居留民を見捨てて、われ先に逃亡しました。「軍隊は国民を守らない」という法則が、沖縄戦と同様「満洲」の地においても、貫徹されたのでした。なかにし礼さんは、先の朝日新聞記事で、この時のことを「最初の棄民経験」だと語りました。では中西家の逃避行は、どのようなものだったのか。
   
その日、父親は出張中で留守でした。母親は姉弟と三人の女中とともに、商売での関東軍のコネを使い、軍人のみに許された避難列車に潜り込んで、牡丹江駅を後にハルピンに向かいました。その軍用列車は、石炭を運搬するための無蓋列車でした。途中、500名余の開拓団の人々が軍用列車のまえに姿を表わし、乗車を求めました。
   
「将校は開拓民に向かって、「悪く思うな。君たちの幸運を祈る」と言って敬礼をした途端、開拓民たちはウォ-ッと声を発して、列車にとりすがった。私たちは最後尾の貨車に乗っていたから、私たちが襲われるような恐怖を感じた。無蓋列車の箱枠には大勢の人が必死にすがりついてる。「みんな、その手を払え!」若い将校は日本刀を振り上げて叫んだ。私も母も姉も、ほかの人たちもみんな、最後尾に乗っている人たちはみんな、箱枠にしがみつく手を振りはらった。振りはらっても外れない時は、その手の指一本一本をもぎとるようにして、はがしていった。・・・・・私は泣きながら、箱枠にしがみつく人の手をもぎとっていた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」。
 8歳の少年が、国家の命令によって、同胞たちの指一本一本をもぎとって捨てさせられたという、戦争の残酷な体験が、赤裸々に告白されます。植民地における植民者間の階級差が、逃避行の中にも顕在化しました。また、ソ連兵による人間狩りを目撃します。
 

   満洲各地からハルピンに着いた避難民たちは、小学校に詰め込められ収容されました。収容所には、自動小銃を構えたソ連兵がやって来て、まず男狩りが始まりました。 「男狩りに遭った日本の男たちは、腰を縄でつながれ、両手を頭にのせて、自動小銃の先で小突かれながらソ連軍のバスに押し込まれていた。」男たちには、過酷な強制労働が待ち受けていたのです。そして、壮年の男たちのいなくなった収容所では、女狩りがはじまりました。収容所へやってきたソ連兵は、自動小銃で脅しながら、日本人の若い女性を差し出すことを求めました。収容所に残った男たちは相談し、若い娘のいる母親に「どうか、われわれ全員を助けるつもりで、これこのとおりです」と両手を合わせて懇願し、やがて若い娘がすすり泣きながら、ソ連兵に差し出されていきました。 

 「一時間も経った頃、ドアが乱暴に開けられ、ほうり込まれるようにして娘が帰ってきた。「おう……」とみんなは意味の分からない声をもらした。娘はお腹のあたりを押さえて身をかがめ、苦痛をこらえる表情で母親のそばへ寄った。「ああ……つらかったろうね」母親はそれだけ言うと、娘をかき抱いてその背中をさすっている。その時、奇妙な現象が起きた。犠牲になった娘の母親にたいしてあれほどまでに感謝の言葉をならべていたはずの避難民たちが、みな一様に静かに身をずらしながら、その親子から離れはじめた。私はこの光景を見て驚いた。娘にたいして感謝と労いの言葉をかけてやることもなく、まるで汚れたものでも見るようにして、避難民たちは犠牲になった親子を遠巻きにした。親子はいっそう身を小さくして部屋の隅にのがれ、そこで抱き合って泣きつづけた。そのすすり泣きはいつまでもいつまでもつづいた。」 

8歳の少年が、逃避と引揚げの途中で見た「満洲」の戦争は、無数の死体が転がる戦場の光景とともに、階級差別と棄民政策にのたうちまわる日本人避難民の姿でした。少年は、戦争の記憶を意識の底に閉じ込めてしまいます。 

「この光景をふたたび見せられたら、俺は生きる勇気を失ってしまう。ここには悪意と復讐、暴力と残酷、非情と恐怖、絶望と憎悪しかない。美のひとかけらも、善のひとかけらもない。だから俺は記憶の奥の奥の奥底に埋めてしまったんだ」。 

さらに、日本へ引揚げた後、少年時代にいじめられた体験が、「満洲」と戦争の記憶を密閉させ続けました。青森の中学3年の時、「満洲生まれの引揚げ者ということがばれた時、私は五人の同級生によって神社に連れこまれ、最初は草履で殴られ、次には袋だたきにされ、最後は丸太で頭を強打されて卒倒した」という体験です。引揚げ者が故郷に帰った後、引揚げ者ゆえにいじめられ、差別されたことが、想起されます。 

小説『夜の歌』は、復興をとげた日本で、歌謡曲の作詞家として活躍するなかにし礼青年が、「ゴースト」という女性の励ましと導きを得て、「満洲」での引揚げ体験の記憶を蘇らせる、というストーリーになっています。「私」と「ゴースト」は、ある時は官能的な愛人同士であり、そしてまたある時は、禅問答を繰り返す師家と修行僧の関係のようです。「ゴースト」は、もうひとりの「私」なのでしょうか。師と弟子との問答はついに、「自分を知る」ことこそが人間の喜びであり、人間が人間であることの証しである、という結論に達します。なかにし礼にとって「自分を知る」とはつまり、記憶の底に閉じ込めた「戦争」の記憶に向き合うことでした。 

 「戦争を見て、そこにうごめく人間たちの愚劣さと醜悪さにあきれ、絶望のあげく、戦争という記憶を開かずの間に閉じ込めて、二度と開けまいとしていたけれど、私は自分という人間の歴史にたいして、なんという無駄な抵抗をしてきたことだろう」という痛烈な反省を経て、自己発見をします。「私には武器がある。その武器とは、私の言葉だ。戦争によって色濃く染め上げられた言葉である。私がどんなに逆らおうと、私がどんなに否定しょうと、その言葉たちは厳然として私の中に存在しているのだ」。 

 こうして出来上がったのが、「恋のハレルヤ」。 

  なかにし礼は言います。引揚げ者の叫び「満洲のバカヤロ-!」を歌にしたのが、「恋のハレルヤ」だ、と。美しい文章です。この本の中で、最も感動した箇所です。長い文章ですが、そのまま引用します。
 

      ハレルヤ 花が散っても  

ハレルヤ 風のせいじゃない」 

   幻のごとく消えていった満洲国への未練とあきらめを散りゆく花にたくして歌ってみた。ああ、そのためには数多くの若者たちが散華していったことであろう、また無辜の民たちがどんなに苦しみかつ死んでいったことであろう。 

       ハレルヤ 沈む夕陽は 

       ハレルヤ 止められない 

   あれほどまでの隆盛をみせた日本国も戦争に敗れ、今や海のかなたに没していく。こればかりはどうしょうもなく、落ちるところまで墜落していくのだろう。一国を滅ぼす、この大いなる力は誰にも止めることはできない。 

・・・・(9行略) 

       愛されたくて 

     愛したんじゃない  

    燃える想いを 

    あなたにぶっつけただけなの  

    帰らぬあなたの夢が 

       今夜も 私を泣かす 

   悔いても悔いても詮ないことではあるけれど、満州で生きた人々にとって、満洲で見た夢は膨大であり、その夢を実現した人も、また志半ばで終わった人もみなひとしくゼロの状態に、いやゼロ以下の状態に落とされ、そこから新しい人生を始めなければならない。夢に向かって歩みつづけた充実感と躍動感は生涯忘れがたいものになっている。だが、それらはみな蜃気楼のごとく消え去った。その蜃気楼がふたたび現れる可能性はまったくない。この虚脱感と無力感の中で人々はどう生きていくのであろうか」 

・・・・・(26行略) 

       愛されたくて 

     愛したんじゃない  

        燃える想いを 

    あなたにぶっつけただけなの  

    夜空に祈りをこめて 

    あなたの 名前を呼ぶの 

 普通の恋の歌なら、最後に「あなたの帰りを待つの」となって当然なのだが、私はそうしなかった。「満洲のバカヤロ-!」とは言ったけど、愛して愛してこよなく愛した満洲、少なくとも生き残っていることのうしろめたさに苛まれながらも、家族を失い、自分の全財産をそこに埋没させ、万華鏡のように思い出のつきない第二の祖国。今後、思い出す時は、そのたびに目には、うっすらと涙のにじむであろうその名前だけは、永遠に、命あるかぎり、いっぱい愛情をこめて呼ばせてもらおう。(以上・引用) 

 
 YouTubeで黛ジュンの歌う「
恋のハレルヤ」を視聴しました。1967(昭42)年発売の黛ジュンのデビュー曲とあります。彼女のミニスカート姿もまぶしく、当時、レコード店の前に立てられた、等身大の黛ジュンの姿を懐かしく思い出します。この歌に、作詞者・なかにし礼さんの、このような戦争の記憶と「満洲」への憧憬の気持が込められていたことに、驚きと感動を覚えました。日本文学はあらたに、魅力的な引揚げ文学のひとつを、我が物としました。

 

 

 

 

 

 

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