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2017年6月20日 (火)

安部公房の描いた「満州」―『けものたちは故郷をめざす』(1957)を読む―

 この春以来、朴裕河著『引揚げ文学論序説』(人文書院2016刊)に啓発され、彼女のいう「引揚げ文学」を読んできました。後藤明生、小林勝、なかにし礼、そして木山捷平の諸作品です。4人の作家たちはいずれも戦後の引揚げ者ですが、後藤、小林、なかにしの三人が、植民地であった朝鮮や「満州」で生まれ育ったのに対し、木山捷平は戦争末期、40歳で単身「満州」に渡った、という違いがあります。しかし、何れの作品も、著者たちの体験を色濃く残した自伝的なものでした。今回読んだ安部公房著『けものたちは故郷をめざす』(1957/4刊)は、私小説とは違ったフィクション性の強い作品ですが、著者の幼少年期の「満州」での体験に裏打ちされ、敗戦後の元・植民者が難民化する中で、故郷として思いつづけた日本そのものを喪失する物語です。

敗戦後の「満州」では、「何十万という僻地の日本人が、死と手を握り合いながら、なだれをうって南の都市に絶望的な行進を開始」していました。そうしたなか、16歳の少年・久木久三は、ソ連軍の「満州」侵攻直後の混乱の中で母親を亡くし、「満州」北西部の辺境の地・巴哈林(バハリン)にひとり残されました。それからの2年7か月、ソ連軍将校の庇護のもと、陽気で自由だが孤独な暮らしをつづけ、徐々に、当初抱いた異質なものが身近なものとなり、疎ましく感じたことが親しみやすいものに変わりました。久三にとって、ここには絶望はなくただ、過去と現在と未来の断絶があるのみでした。そして、ソ連兵将校とともに過ごす生活は、「粗野と単純と退屈の連続」で、「夜になると取り残されたものの焦燥が夢になってあらわれる」のでした。久三を取り残した日本とは、少年にとっては、教科書で習った次のようなイメージでした。

「富士山、日本三景、海にかこまれた、緑色の微笑の島……風は柔らかで、小鳥が鳴き、魚がおよいでいる……秋になると、林の中で、木の葉がふり、そのあとに陽がかがやいて、赤い実が色づく……勤勉なる大地、勤勉なる人々……」

久三はやがて、ソ連軍将校の庇護下から脱け出し、日本を目指して「満州」の荒野を南に向かいます。はじめは、八路軍支配下の列車に乗って南下しますが、途中で国府軍に襲撃されて列車は転覆、得体のしれない日系中国人の男とともに、命からがら現場から逃亡します。ふたりは、線路から離れた南への直線コースを進みますが、そこは八路軍と国府軍の境界線であり、雪と氷に覆われた酷寒の荒野で、痩せた野犬と狼がひとを狙っている恐怖の土地でした。

焚火で暖をとりながら、義眼と頬傷のある男は高石塔と名乗り、久三に語りかけます。

「内地に帰れたら、うれしいかね?」

「……そりゃ、うれしいです。」

「そうだろうな……おれはまったく、いろいろ考えたりするのが好きなたちでね、おれはいったい何処からやってきたのかな?・・・・・おふくろが日本人で、そのおふくろの父親は朝鮮人で、その先はよく分らん。・・・・・」

この会話は、この小説を理解するための鍵かもしれません。久木久三は、「満州」で生まれ育った日本人ですが、彼の日本についての認識は、教科書的で理想化されている。崩壊した「満州」国を捨て、微笑と勤勉の国である日本へ帰れたら、うれしい。「満州」でありながら日本人社会のなかで生まれ育った久三は、間違いなく自分を「日本人」と定めます。しかも日本は、強風が吹きすさぶ荒野の「満州」と違って、柔らかい風の吹く緑の国である。だから彼の帰るところは、日本でしかあり得ない。一方、高は日本人と朝鮮人の血を受けた中国人で、その故郷が何処なのか、わからない。高がめざす故郷が日本であっても不思議ではない。

ふたりの南をめざした荒野の旅は、死と隣りあわせの絶望的な様相となって来ます。酷寒のもと、久三は、凍傷で赤黒く腫れあがった高の小指を、ナイフで切り落とします。極度の睡眠不足と寒さに飢餓がくわわり、狂気となります。水さえあれば20日間は生きられると思い、久三は手首を噛んで血をすするという幻想を、思い浮かべます。こうした絶望的な行進をつづけていてぶつかった、行き倒れになって日本人家族の姿は、最も衝撃的で印象的なシーンです。

「(町に近い路上で、鼠に食い荒らされたミイラにぶつかった。「ミイラはぜんぶで五つあった。どれもがぜんぶ素っ裸である。三つは大きく、一つは中くらいで、残りの一つはひどく小さい。中くらいのやつと、大きなやつの一つには、まだ頭に髪の毛が残っていた。みんなそれぞれに、勝手な姿勢を採っているが、横にちゃんと一列に並んでいる。そして同じように、顔と内臓をきれいにかじりとられていた。

 すぐ頭のところに、ちょうど日ざしに半ばかかって、石でほりこまれた文字が読めた。

ムネン

ミチ ナカバニシテ

ココニ

ワレラ ゼンイン

ネツビョウニテ

タオル 

二十一ネン ナツ

ミズウラ タケシ

ホカ 四メイ
 
・・・・・久三はぞっとして後ずさる。ミイラたちが彼をうらんでいるような気がしてきたのだ。」

このあと物語は、久三と高が死線をさまよった後かろうじて荒野から脱出し、瀋陽市に到着した後のことが語られます。高は、久三の胴に偽装して運んできた大量のヘロインを、久三を殴打のうえ奪い取り、瀋陽の街へ消えました。一方、久三は、高に捨てられたあと、日本あるいは日本人を求めて市内をさまよいますが、日本人から浮浪児や乞食として拒絶されます。やがて、日本人密輸業者に拾われ、小さな船に乗って日本へと向かいます。

久三が、密輸業者の大兼に問います。

「日本、どんな具合ですか?」

「そうだな……まあ、一口に言えば、一面の焼け野原さ……」

「桜の木も、焼けたんでしょうね。」

「桜?……桜なんて、おめえ、どうってこともないじゃねえか。」

「ぼくはまだ、見たことがないんですよ。」

久三は、瀋陽の日本人社会から拒絶され、さらに彼の描いていた「日本」像が崩壊します。彼の夢の中には、巴哈林しかでてこない。久三にとっての日本とは何だったのか。

密輸船には「久木久三」を名乗る男が捕らわれていました。高が「久木久三」を名乗り、ヘロインをもって日本への渡航を目指していたのです。ふたりの「久木久三」は、密輸業者にとっては好都合でした。高からヘロインを奪取し、偽の久木久三を始末、そして久三をコック補佐として密輸船で働かせる、という企みです。密輸船が日本の岸壁に着いた時、狂った高と逃げだそうとする久三は、船倉に閉じ込められていました。「戦争だ!」と叫ぶ高の横で、久三は次のような妄想をくり返しました。

「……ちくしょう、まるで同じところを、ぐるぐる回っているみたいだな……いくら行っても、一歩も荒野から抜けだせない……もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな……おれが歩くと、荒野も一緒に歩きだす。日本はどんどん逃げていってしまうのだ……一瞬、火花のような夢をみた。ずっと幼いころの、巴哈林の夢だった。母親が洗濯をしている。

……こうしておれは一生、塀の外ばかりをうろついていなければならないのだろうか?……塀の外では人間は孤独で、猿のように歯をむきだしていなければ生きられない……けもののようにしか、生きることができないのだ……荒野の中を迷いつづけていなければならないのだ……

だが突然、彼はこぶしを振りかざし、そのベンガラ色の鉄肌を打ちはじめる……けものになって、吠えながら、手の皮がむけて血がにじむのにもかまわず、根かぎり打ちすえる。」

日本の岸壁に到着したその時、久三は、自らの自由意思で追い求めてきた国家「日本」が、目の前から姿を消したことを悟ります。「日本」が消えたことによってはじめて、塀=境界線の外でしか、しかも孤独に生きていかなければならないことを、自覚します。安部公房が、自らの「満州」体験を内省したときの、ひとつの結論がここにあるように思いました。

 

追記:安部公房(1924~1993)は、北海道開拓民の家系をもつ両親から生まれ、生後8か月の時、家族とともに奉天市(現・瀋陽市)に渡り、幼少年期を「満州」で過ごしました。父は、「満洲医科大学」の医師でした。学生時代の40~44年は、「内地」の高校・大学へと進みますが、44年暮れに家族のもとへ帰り、敗戦を迎えます。戦後、チフスで父を亡くし、さらに家を追われて奉天市内を転々としたあと、46年暮れ、引揚げ船で日本へ帰りました(ウィキペディアから要約)。

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