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2017年6月 7日 (水)

木山捷平の「満洲」―『大陸の細道』を読む ―

  岡山県出身の詩人・作家の木山捷平(19041968)は、1944年の暮れ、新境地を開拓すべく「満洲」に渡ります。満洲農地開発公社嘱託として首都「新京市」(長春市)に赴任した木山は、気ままで自由な立場を享受していましたが、戦争末期になって現地召集をうけ兵役に就きます。そして敗戦後、1年ほど難民生活をつづけ、47年に引揚げてきました。

今回は、木山捷平の小説に描かれた「満洲」での終戦前後の個人的体験を追いかけ、歴史書には書かれなかった「満洲」の史実に接近したい。小説ではいずれも、主人公は「木川正介」として登場し、これらの作品が、木山捷平の自伝であることを明らかにしています。

まず、芸術選奨受賞作の『大陸の細道』(47-57初稿発表・62/7刊)から。この作品では、正介の「満洲」渡航からM農地開発公社嘱託の仕事を経て、戦争末期の現地召集・兵役に就くまでの、わずか八か月たらずの間に体験したことが、飄々と語られます。
 家族を内地において単身での木川正介の「満洲」渡航は、公社嘱託としての報酬を目的としたものなのか、もの書きとして新境地を開拓するためのものであったのか、あるいは両方であったのか文面では明らかではありませんが、ただ、文中会話にある「満洲くんだりに来るように」なって結局、「満洲というところは、人生の落伍者が来るところでしょうか」というのが、正介の正直な意識だったようです。内地で食い詰めて植民地へ渡る、という渡航者に共通するという動機の一端が、正介にもうかがえます。

 その「満洲」で、嘱託職員の仕事として唯一語られているのが、「寒中工事」さなかの農地開発現場を視察するためのチャムス訪問です。視察旅行にあたり先輩の同僚から、「わが社が北満で行っている農地造成工事は世界的に有名なものだから、これだけは是非見学しておくように」と勧められ、また「寒中工事だから、春になって氷が解けると、来年の冬までは工事が中止になるから、見るなら今のうちだ」と耳打ちされて出かけます。

チャムスに到着、ボロ自動車に乗って工事課長に案内された現場は、夜中に狼が出没し、太い茎の枯葦の叢が生い茂ったような場所でした。その叢の向うで、満人の労働者が二人、線路工夫の使う鶴嘴のようなもので、凍てついた土を掘り起こしていました。

 「こういう工合にして、寒中工事をやって居ります」と課長は振り返って言った。「この辺一帯は、ものすごい泥沼地帯なので、春から秋にかけては、とても人間が入れたものではありません。ですから、こういう工合にして、冬期間、泥沼が凍結している間を利用して、土をほり起こす工事をやっております。今御覧のあの穴は、あれが排水溝になるのですが、排水ができれば、自然に泥沼の水がひきますから、この泥沼地帯一帯が、米の作れる水田に変貌する、と、こういう構想でやって居ります」。

 正介は意外だった。世界で有数な寒中工事というのだから、広い原野の中に高い鉄柱のようなものが林立し、モーターのようなものが耳をつんざく轟音を立て、クレーンのようなものが空中に飛翔交錯する図を脳裏に描いていたからであった。(『大陸の細道』から)

 「満洲」国建設の最前線ともいうべき農地開発工事の現場は、これから「満洲」へ渡って開拓現場に入ろうとする植民予定者たちには、「世界有数の寒中工事」として喧伝されていたことが、想像されます。そして植民予定者たちは、「満洲」へ渡ることへの不安を払拭する(慰める)ための材料として、この「世界有数の農地開発」に夢を託したのかもしれません。正介は、「満洲」開拓構想の稚拙さを、工事現場に見出しました。

 『大陸の細道』のなかで是非書き留めておきたいのは、木川正介の兵役体験です。

正介は、ソ連軍がソ満国境を越えた直後の812日朝、「米三合、ビール瓶、凶器」を必携携帯品とし当日「十八時児玉公園に出頭」と書いた白紙の召集令状を受け取ります。赤紙でなく(用紙不足のため)、身体検査もなく、軍靴一足、軍帽一個も与えられず、「凶器」は、持参した鉛筆削りのナイフと出刃包丁を括りつけた木銃のみ。翌13日、40歳をすぎた老兵ばかり約40人が、34,5歳の軍曹から「大日本帝国の軍人として、決死の覚悟をもって奮戦してほしい」と訓示を受けました。

最初の命令は、渡されたスコップで道路の四つ角に穴を掘ることでした。この溝みたいな穴で敵の戦車を動けなくし、この十字路を死守するためでした。穴の効果をいぶかる新兵に対して、古参兵が解説します。「お前たちと自分達がこの穴の両側にかくれていて、敵の戦車がやってきたとき、バクダンを抱えて飛び込むという作戦なんだ。お前達が昨日持って来たビール瓶にバクヤクを詰め込むと、あれがバクダンになるんだ」。新兵たちは、これが自分達の墓穴になるだろうことを、容易に見抜きました。しかし、大日本帝国陸軍幹部たちは、あくまでも真面目でした。彼等の編み出したソ連軍戦車破壊のための爆弾投擲作戦は、最高傑作のひとつでしょう。部隊長である見習士官の演説のあと、作戦訓令がはじまります。

 演説が終わった見習士官は頬を紅潮させて壇をおりると、軍曹のそばに行って何か囁いた。するとプランは既に出来ていたようで、講堂の入口から二人の古参兵が一つの乳母車をおして入って来て、講堂の真中においた。「新兵、乳母車を、注目」無精ひげの軍曹が絶叫した。新兵たちが注目している眼の前で、一人の軍服兵はこっちを向いて、両手で鳥が立つ時のような所作をして、乳母車を前方に発車させた。が、余り力を入れすぎた為か、乳母車は右に急転回して、相手もあろうに見習士官の足許のところまで行って、がちゃんと転覆した。「元へ」軍曹が顔をしかめて叫んだ。するとその時、別の軍服兵が二人出て来て、講堂の演壇の下から入口に向かって、二本の白い線を白墨でひいた。乳母車の発車係の軍服兵は、前回よりも少し前方に位置をかえた。そして今度は鳥が立つ時の所作はやめて、砥石で鎌をとぐ時のような低姿勢で、乳母車をすうッとゆるやかに発車させた。乳母車はころころと無心に二本の白線の間をころんだ。と、その時入口の方から一人の別の軍服兵がまっしぐらにかけて来て、野球のランナーが塁に飛び込むときの要領で、バタリと床の上にぶっ倒れた。と思うと、腕にかかえていたフットボールを乳母車の車輪めがけて投げつけた。その勢いに乳母車はガタンとひっくり返った。「よーし、成功」と軍曹が叫んだ。乳母車が戦車で、フットボールが爆弾の模型なのであった。爆弾をかかえて、命を棒に戦車に飛び込む訓練なのであった。
 訓練はすぐに開始せられた。が、骨のかたくなった老兵は、よたよた走って行ってボールを投げるが、ボールがうまく乳母車に当らなかった。一ぺん床の上にころげて、乳母車の胴体の下に投げ入れる要領がむずかしいのだ。ヘマをやるとその度に「元へ―」「もう一度、やり直し」の号令がかかった。(
『大陸の細道』から)
  1945813日の「満洲」の首都・新京市における大日本帝国陸軍の実態は、このようなものでした。はたして820日、新京市にソ連軍が侵攻し占領、軍政下におかれます。そして91日長春市に改称され、「満洲」首都、新京市消滅。旧・新京市の日本人と「北満」から避難してきた日本人は以後、難民として辛苦を味わい尽くします。木川正介の難民生活の様子は、『長春五馬路』(68/10発行)によって詳細に語られます。これは、次回に書きたいと思います。

 

 

 

 

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