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2017年7月 7日 (金)

思想劇 ヴィクトール・E・フランクル著『もうひとつの〈夜と霧〉ビルケンヴァルトの共時時間』を読み解く

   19年前、アウシュヴィッツを訪ねるにあたりテキストとしたのが、フランクルの『夜と霧  ドイツ強制収容所の体験記録』でした。絶望的な強制収容所のなかで、精神的な自由を維持しつづけた英雄的な人びとの話に、こころ打たれたことを記憶しています。今回、この本を読み返してみて、ただ一か所、それもたったの一行に、オレンジ色のマーカーが付けられているのを発見しました。

「私はここにいる―ここに―いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ……。」

この一行は、近いうちに死ぬことを知っていたある若い女性のエピソードの中に出てきます。彼女は、強制収容所のなかで精神的に崩壊することなく、その運命に感謝し、最後の日々を、内面の世界へと向いていきました。(以下一部要約して引用)

「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの」。バラック病舎の小さな窓の外に、ちょうど蝋燭のような花を着けたカスタニエンの樹(栗の樹)の枝が見ることができる。「この樹とよくお話ししますの」と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉が判らなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起こしているのだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしましたか?―しましたって!―では何て樹は言ったのですか?」彼女は答えた。「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる―ここに―いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ……。」(『夜と霧』みすず書房版p.172

この若い女性は、内面的な拠り所としての緑の樹との会話によって、精神的・人間的崩壊から免れ、「生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれていた」のです。 

   この度『夜と霧』を読み返したのは、図書館の新本コーナーで、ヴィクトール・E・フランクル著『もうひとつの〈夜と霧〉ビルケンヴァルトの共時時間』(ミネルヴァ書房2017/4/20)を発見し、読み始めたのがきっかけでした。訳者「まえがき」に、「三人の哲学者を中心とした形而上学的・宗教的真理を、劇という一つの芸術を通して、伝えようと試みている」と記されているように、この本は形而上学的・宗教的対話を中心に書かれており、私には、やや難解な読書となりました。そこで、『夜と霧』を読み直すことでフランクルの収容所体験を見つめ、『もうひとつの〈夜と霧〉ビルケンヴァルトの共時時間』を三度読み返して、この思想劇の理解に努めました。

 まず、天上での三人の哲学者たちの問題提起を見ます。(以下一部要約して引用)

  ソクラテス ともかくこんなふうでは人間たちはもうやっていけません。どうかしなければなりません! 信じるという行為が死に瀕しています。誰ももう人の言うことを信じませんし、だれももはや自分自身を信じていません。そして何よりも、誰ももう理念(イデー)の存在を信じていません。問題は、人間の存在です。あらゆることが危険に曝されています! 二つの世界大戦はいわゆる人間の道徳を完全に葬ってしまいました。

スピノザ 大衆はもはや何も信じていないのです。一方、自分が何をしているかを知っていると思っている少数の者は、やりたい放題です。彼らは、迷える大衆、正気を失った大衆を悪用しています。

カント しかし、私たちは何をすべきでしょうか?

ソクラテス 私たちは人間を助けなければなりません。誰かが地上へ降りていかなければなりません。

スピノザ どうか次の一事を忘れないでください。今日では、最も信ずるに足りないものが真理であるということを。真理を口にする者は初めから反時代的です。

カント どういうふうに人間に真理を手ほどきしたらよいでしょうか?

ソクラテス 芸術です!

カント 芸術が人間に見せる非現実性は、人間の現実より真理に近いのです。

ソクラテス 私はただ、人間に、彼ら自身の現実から何かを見せてやりたいと思っただけなのです。人間が彼ら自身の、真理を探り出せるように……。「ビルケンヴァルトの共時空間」の芝居の開演です!

カント ソクラテス、どんな芝居を仕組んでいるのか?

ソクラテス 私は人々に一枚の地獄図を見せて、人間は地獄でも人間であり続けることができるということを証明するつもりです。」(p.p.13-25)

  天上の三人の哲学者たちは、人間が二つの世界大戦によって道徳や理念を喪失し、危険な状態にあると認識します。人間がこの危機から脱するためには、真理を取り戻さなければならない。そのため、絶望的な強制収容所において、人々が精神性・人間性を失わなかったことを証明しなければならない、と思考します。このテーマはまさに、『夜と霧』のテーマでした。

  この思想劇は、上記の天上における三人の哲学者たちの対話につづき、舞台は収容所内の対話に移ります。登場人物は、三人の哲学者に加え、フランツ(フランク)、カール(フランクルの兄)、母を中心に、黒天使、親衛隊伍長、カポ、囚人が登場します。そして、絶望的な収容所の中で、いかに人間であり続けることができたかが、登場人物たちの対話を通して語られます。その中心にあるのが、フランツの場合です。

  フランツの母は、すでに収容所内で亡くなっています。そして、兄のカールは親衛隊伍長に罵倒され、自らの死を受け入れようとしています。生と死と苦悩についての兄弟の対話は、この芝居の最も重要な思想を表わしています。

  カール さあ、今日俺は自分を犠牲にする。今日俺は自分の人生を意味あるものにする。お前の理論に従って、今日俺は意味ある死を手に入れる!

  フランツ そんなふうに言うな、辛いから。

 カール (腕をフランツの肩にからませて)お前は俺に何度も説教したな、苦悩は生に属している、と。苦悩も意味を持っている、と。

 フランツ 実際またその通りだよ。ただし、人がその苦悩の中にあって、苦しみ抜かないといけないとき、身をもってそれを実証しなければならないときに、そうなんだ。

 カール そのとき初めてそれは真実になる」。(p.p.49-50)

 この会話は、『夜と霧』に書かれた次の記述によって、より深く理解されます。

 「人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人一回だけ立っているという意識にまで達せねばならないのである。何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。何人も彼の代わりに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。かかる考えはわれわれを救うことのできる唯一の考えであったのである! 何故ならばこの考えこそ生命が助かる何の機会もないような時に、われわれを絶望せしめない唯一の思想であったからである。(『夜と霧』p.185

 母のそばに行った兄カールとは違い、フランツは「俺は死の安らかさを見出さない、まだすべきことがあるから……」と生きつづけることを決意します。フランツが「まだすべきこと」とは何か? それこそまさに、三人の哲学者たちとともに作っている芝居の完成なのです。しかし、収容所の生活は、たえず飢えと寒さが襲い、仲間がガス室を送られていく日々です。フランツは、死に誘惑されます。

 フランツ 俺は死ぬんだね。なんてすてきなんだ! 俺はずっと死ぬことを恐れていた。でも今は死ぬことがどういうものかわかる。(晴れ晴れとして)俺は母さんたちに、みんなに、近づくんだ」。(p.73)

 フランツにとって「死」とは、芝居の完成の断念を意味しました。
 
フランツ 主よ、まもなく私の番です。あなたはそれをご存知です。お手伝いください……。私はこの作品の完成を断念します。その男の代わりに私を召してください。私はあの男がまだ生きたいと欲していることを知っているからです。あの男にとっては生きることが大事なのです。家にいる彼の若い妻にとってもそれは同じです」。(p.77-8)

 自分の死と引き換えに、他者の生を得させたい、という思想が表明されます。これは、アウシュヴィッツで実際にあったコルベ神父の犠牲を思い起こさせます。しかし著者は、あくまでもフランツが、芝居を完成させることにこだわります。犠牲としての死よりも苦悩のなかの生を! 

 フランツ 何のために俺は生き続けなければならないのか……

 スピノザ 彼に生きる意味をわからせてやることは出来ないんですか?

 黒天使  彼は自分でそれを知らなければなりません。そうでなければ助けられません。

 フランツ これが恩寵なのか? 恩寵とは死のことだったのに。

 カント  私たちは彼をもうしばらく必要とするのです。

 ソクラテス 彼は作品を一つ書かなければなりません。自分の作品を完成し、書き留めなければなりません」。(p.84-85)
 
 三人の哲学者に励まされて、フランツはついに決断します。

  フランツ 俺には判決が下った。生き続けろと、この汚辱の人生を続けろと。しかし、汚辱の人生を続けようとは思わない。おれはこれを実り多いものにするよ。そして俺が始めたことを完成するよ。その前には死なない……(P.86)

 「俺が始めたこと」とは、いうまでもなくいまだ未完の芝居の戯曲のことです。フランツはこの芝居の完成、つまり哲学者たちが「待っている」課題を果たすために、生きつづけることを決断したのです。

 他人がフランツの仕事の完成を「待っている」、他人にとってフランツはかけがえのない存在である、その責任を意識したときフランツは、生命を放棄することを止め、生きつづけることを決断したのです。このことこそ、「人間は地獄でも人間であり続けることができるということを証明する」ことでした。

   『もうひとつの〈夜と霧〉ビルケンヴァルトの共時時間』を『夜と霧』と併読することで、以上のような読み取りをすることができました。

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