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2017年10月21日 (土)

占領の記憶を見直す―西川祐子著『古都の占領 生活史からみる京都 1945-1952』を読む―

 高崎市の図書館で、新刊コーナーに並んでいた西川祐子著『古都の占領 生活史からみる京都 1945-1952』(平凡社17/8/25刊)を偶然見掛け、読んでみることにしました。京都で生まれ育った私にとって、私の0歳から6歳までの京都の歴史は、幼児期の記憶の断片を幾分かでも蘇らせてくれるのではないか、また、私の個人的体験を歴史のなかに置いて思い返せるのではないか、などと淡い期待をもちました。 

本書は、1937年東京で生まれ京都で育った文学・女性史専攻の著者が、GHQや京都府の公文書、市民の日記やインタビュー、そして著者自らの個人的体験等から、膨大な記録と記憶の断片をジグゾーパズルの切片を埋めていくようにして、占領期の京都を描いた歴史書です。

著者の問題意識は、不戦をはじめとした戦後価値が無効になろうとしている今日、戦後がきずいた生活と思想に脆さがあったとすれば、戦後を占領期にまでさかのぼって記憶を再検討する必要があるのではないか、という点にあります。著者は、「長い戦後が、もうひとつの戦前となって終わることだけは食い止めたいから」と強く意欲して、本書を書き上げました。

 

占領軍の京都への進駐は1945925日に始まり、連合軍占領下で、つぎのようなことが起こりました。(印象的な事象・事件を任意にピックアップします)

 【植物園の接収】1946年、京都御苑(御所)が米軍将校宿舎として接収される通達をうけ、京都府知事と宮内省京都事務所長の必死の努力により、京都御苑に代えて京都府立植物園に変更になった。この変更の背景に、GHQによる占領政策における天皇制の積極的利用という路線があった、と著者は指摘します。

 【日本人少年死亡事件】加茂川と高野川にかこまれた下鴨において、一段高い接収住宅から「進駐軍」家族の6歳の男の子が下の道に集まっていた住民の子どもたちに投げたドライバーが中学3年生の少年の頭蓋を貫通、ほとんど即死であった。事件がどのように処理されたか、詳細は不明である。

 【交通事故】問題は初期の交通事故のほとんどが占領軍ジープや大型トラックのひき逃げに終わることである。また被害者あるいは事故の目撃者が加害者は飲酒運転であったと訴えている。祇園さんの石段を「進駐軍」がジープで駆けあがったことも、多くの市民に記憶されている。

 【会社員殺傷事件】1945年年末の夕方、伏見区深草で会社帰りの会社員が殺傷された。「進駐軍」兵士の加害と推察されたが、解明されず。講和条約発効(1952428日)後、「進駐軍事故見舞金」が京都府から支払われた。

 

 植物園は、将校家族用の宿舎として接収されました。独身者の兵士たちは、岡崎公園内の公的施設を宿舎としました。このほか、占領軍家族用住宅として、一定の条件を備えた洋館住宅が強制接収され、住宅所有者と同居するケースが多かったようです。一定の条件とは、ガレージ・セントラルヒーティング・水洗便所が必須でした。こうした接収住宅は、堀川通り以東の京都市の東半分に集中していました。

②③➃は、占領軍あるいはその家族による市民に対する加害記録です。事故あるいは事件の捜査は杜撰で犯人は逮捕されず、占領軍に対する賠償責任も問えず、結局、被害者はサンフランシスコ講和条約発効後に、京都府から見舞金を送られただけでした。現在の沖縄における米軍と住民の関係が、思い起こされます。

 

クルーガー図書館の記述に目が留まりました。京都に進駐した占領軍、米第6軍司令官クルーガー中将の寄付した520冊をもとにした小さな図書館のこと。19461月に四条烏丸にある日生ビル内に開館後、占領期のあいだ市内4か所を転々とし、その4か所目が、1951年から等持院近くの日本画家木島櫻谷旧宅(現櫻谷文庫)を利用したものでした。私はここから徒歩30分ほどの北野天満宮の近くに住んでおり、小学校4年か5年の夏休み、宿題の自由研究として採集したシダ植物の名前を調べに来たことを思い出します。和風の広い座敷が閲覧室となっており、多くの大人と学生と子供たちが、静かに勉強や読書や調べ物をしていました。開け放たれたガラス戸の外からは、涼風とセミの鳴き声がたえず、流れ込んでいました。狭く薄汚れた西陣の路地に住んでいた者からすれば、ここは別天地のようなところでした。

 

著者は、占領期京都の逼迫した生活をもっともよく書き残したものとして、敗戦の年には76歳、千本通りで玉突き屋を経営していた男性が綴った絵日記『辛酸―戦中戦後・京の一庶民の日記 田村恒次郎』(『田村日記』1944-1950)を取り上げます。私の誕生日は19461023日ですが、その前後の様子を『田村日記』にみます。 

 1011日に町会長から長女の息子が2年前に戦死していたとの知らせを受けとり、孫の死を娘にいかに伝えるべきかを10日悩む。

 1023日には「主食はつとめて米麦を配給す/昭和21111日より実施す/但し京都市の欠配は1031日打ち切りとす」と回覧版通知を筆写。これまでの欠配分をチャラにするという一方的な通知。

 1024日「ゲンキデ ブ ジ サセホニツクトウヘイ」の電報受ける。三男の復員。

 11月になるとそれまで4人分であった配給が、復員した三男が増え、5人分となる。町内に一足の靴の配給あり、くじ引きに当らず。

 1214日、娘が闇買いに行った亀山駅ではじめて荷物を没収される。「サツマ芋四貫、七拾円の損」

 1946年は不作の年で、端境期の秋には、飢餓が懸念されました。私を「稔」と名付けた両親の気持が、痛いほどわかります。⑤の「亀山駅」は「亀岡駅」の間違いではないかと思いましたが、他の箇所で岐阜の関までサツマイモを買い出しに行ったとの記述があり、闇買いに「亀山駅」まで行ったこともあったのだと思い直しました。

 

1950625日、朝鮮戦争が勃発します。翌年の2月、京大生・小野信爾は、警察官は朝鮮戦争に協力するな、というビラを下鴨警察署に撒きにゆき、逮捕されました。「占領目的阻害行為処罰令」違反を問われたのです。そして小野は、日本の裁判所ではなく占領軍の軍事裁判で裁かれ、1951411日「重労働3年、罰金1,000ドル」の有罪判決をうけました。日本国憲法(47/5/3施行)の下で軍事裁判があったことに驚きますが、このことは、占領期の統治がGHQと日本政府の二重構造であったことを物語ります。そして、1952年のサンフランシスコ講和条約後の日本の政治が、日米安保条約と日本国憲法の二重構造のもとにありつづけていることの原形を、占領期に見出します。小野青年は獄中でも闘いを続け、朝鮮戦争向け米軍軍需品の縫製作業を拒否しました。

 

私の少年期の日常的な生活範囲は、南北の西大路通りと千本通り、東西の北大路通りと今出川通りの4辺に囲まれた地域、とりわけ北野天満宮と金閣寺の周辺でした。著者はこの界隈に「占領期京都の記憶インタビューのなかでもとくに曖昧で謎めいたいくつかの語りが、集中していた」と記します。この地に、連合国軍対敵諜報部CIC本部や情報活動に関わる将校たちの住宅があったことによります。

現在、北野白梅町北東部に聖ヨゼフ修道院と聖ヨゼフ医療福祉センターがありますが、占領期にはここに、連合国軍対敵諜報部CIC本部が設置されていました。元住友別邸を占領軍が接収したものです。カトリック信者だった母は長年、この医療センターでのボランティア活動に携わっていましたが、その前身がCIC本部だったことは、多分知らなかったと思います。

 本書には、金閣寺近接の接収された邸宅の娘の話が出てきます。「生家は進駐軍の秘密事務所だった。筆者は女学校を卒業し、CIC本部に勤務した。そこには京都に住む外国籍の人の名簿があって、自分の実家にあった秘密事務所がどんな情報を集めていたかがわかったという。ある日ぐうぜん「フィリッピンの記録」という米軍作成の映画の試写に立ち合い、クラークフィールド空港で木の根元によりかかって玉砕した日本人将校の映像が自分の兄その人であることに気づく」。自宅接収、CIC本部勤務、兄の玉砕死フィルム。占領下の京都の記憶の一片です。

 子どもの頃、両親から聞いた「進駐軍」の話題は、わが家に度々訪ねてきたというあるアメリカ人将校のことです。私たち家族の家は、北野天満宮(天神さん)近くにあった警察官舎で、その官舎の裏には厩舎と狭い馬場がありました。父が騎馬巡査をしており、何人かの馬丁さんたちとともに、馬の世話をしていました。アメリカ人将校のねらいは、その馬にあったのです。両親や姉たちの話では、チョコレートやガムの菓子類を持参しては、乗馬を楽しんでいたとのこと。彼はある時、我が家の三女(1942年生まれ、当時4歳)を養女に欲しいと父に申し出たとのこと。冗談だったのか本気だったのかはわかりませんが、父は断りました。両親と姉たちの受けた「進駐軍」将校の印象は、紳士的で好意的なものでした。親たちの話からは、この将校に対する警戒心は全く感じられませんでした。そしてこの将校が住んでいたのが、金閣寺に近接し西大路から東に入ってすぐのところにあった洋館住宅でした。この洋館の建物は、私の小学校時代にはまだ建っていたことを覚えています。 

 

チンチン電車転落事故について触れておきます。194628日午後11時に堀川中立売の鉄橋から市電が転落、米兵2名をふくむ死者15名、重傷者13名出た、という事件です。この事件のことは、本書で初めて知りました。子どものころ、京都駅へ行くときは必ず、このチンチン電車を利用していました。事故のあったという堀川の鉄橋は、長さ数メートルの短い鉄橋であったにもかかわらず、電車で渡るとき眼下を見下ろすと怖かったことを覚えています。著者によると、この事故については多くの市民の記憶に残っており、例えば事故原因を、「女性運転手に酔った米兵がからみ、運転手がブレーキから手をはなさざるをえなかったため」という話などです。天神さんの東隣りに上七軒という花街がありますが、そこの歌舞練場が占領軍に接収されて「北野キャバレー」と呼ばれる米軍専用ダンスホールとなっていたとのこと。事故で亡くなった米兵は、北野キャバレーでのダンスパーティの帰りでした。

 

私の0歳から6歳の幼年期と同時期の京都で、とりわけ私の住んだ狭い生活圏において、以上のような出来事や事件・事故があったことに、感慨深さを覚えます。また、京都を離れてすでに半世紀近くになりますが、本書に描かれたふるさと京都の姿に、身体が火照るような懐かしさも覚えました。著者の西川祐子さんに感謝したい。

 

著者はインタビューや対談で、占領期京都の記憶を語り合うなかで、次のような京都市民の言葉を聴き取ります。「僕らの世代はまけるという思想なんやから」「戦争に負けてよかったがな。負けてなかったら僕かって、また戦争へ行って人を殺さんならんかったかもしれん」「殺されるのはおそろしい、あたりまえや、絶対いやや。そやけど人を殺さんならんのはもっとこわいのとちがうやろか」。そしてこの80歳、90歳の人々の伝言を、「戦争をたたかわない思想」「死ぬな、殺すな、生きのびよ」を今の18歳に伝えたい、と記して本書を閉じました。

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