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2018年7月 2日 (月)

ペナン島訪問記 その5

   今回の旅行にあたり、ペナン島への関心のあり様は、漠然としながらも次の2点にありました。そのひとつは、多民族・多言語・多宗教など多文化共生の社会ってどんなだろう、肌身で感じて見たい、ということでした。そして、ふたつ目は、日本とペナンの関係、特にアジア太平洋戦争時における日本軍のマレー侵略の一端に触れる、ということでした。この「ペナン島訪問記」の5回目は、日本軍のペナン島占領遺跡訪問について書きます。Img_0019_2

  「ペナン華僑抗日戦殉職整備工及び戦没同胞碑」。ペナンヒルに向かう途中にあった歴史的記念碑です。日中戦争突入後、日本軍によって中国沿岸部を制圧された中国国民政府は、中国への南方からの援助物質を確保するため、ビルマと雲南省の間の山岳地帯に、1000キロ以上の公路を建設しました。この公路建設のため、1939年ペナンの華僑組織は358名の整備工を派遣し、多くの犠牲者を出しました。また、日本軍はペナン占領の3年8ヶ月の間に、戦闘ではなく拷問・虐殺によって無抵抗の一般市民の命を奪いました。こうした犠牲者の霊を弔うために建てられたのが、この記念碑です。この記念碑の下には、戦後発掘された犠牲者の遺骨約800体が埋葬されています。Img_0017 ペナンにおける日本軍による拷問・虐殺事件のひとつが、記念碑の近くの中学校で起こりました。「ペナン・ヒルに近いアイル・ヒタムにある私立鐘霊中学校の教師8人と生徒46人が殺害された。教師は授業を通じて、生徒は校内誌や自治体活動で、抗日愛国の活動を呼びかけていたという。密告者による情報を得たうえでのことだった」。(高嶋伸欣他著『マレーシア』より、梨の木舎2010発行) Img_0042_3 ペナンと日本の関係、とりわけアジア太平洋戦争期の日本軍の残虐行為等については、PENANG HERITAGE TRUSTに詳細かつ良質の情報が掲載されています。上記の高嶋伸欣氏の旅ガイド同様に、大変参考になりました。
 ジョージタウンの中心部近くに、日本軍の慰安所だったところが、現在も残っています。PENANG HERITAGE TRUSTの記述によれば、慰安婦にされた女性たちは、朝鮮半島から連れてこられた女性や現地女性がほとんどだった、という。中には、英国統治時代にはある程度の地位を有していたユーラシア系の女性もいた、といわれています。Img_00161_3 日本軍によるペナンの犠牲者は、どれぐらいいたのでしょうか。1941年12月8日、マレー半島東北部の町コタバルへ上陸した日本軍は、9日にはペナン島への空襲を開始しました。11,12日にはジョージタウンも攻撃を受け、483名の死者、1000名以上の負傷者を出しました。12月19日にペナンに無血入城を果たした日本軍は、ペナン占領の3年8ヶ月の間、戦闘ではなく拷問・虐殺によって無抵抗の一般市民の命を奪った、と既に書きました。この拷問・虐殺による犠牲者数は正確にはわかっていないが、「83名の子どもや女性を合わせた1600名もの遺体が見つかり、他にもペナンヒルでは多数の人骨が見つかった」とPENANG HERITAGE TRUSTは指摘します。空襲と拷問・虐殺で少なくとも2000人以上の人びとが亡くなった、ということになります。

 今、私たち日本人は、アジア太平洋戦争での日本軍の加害責任に、どう向き合っていくかという重要な課題を突き付けられています。このことを、アジアの国々を旅行するとき、頭の片隅に是非置いておきたい。

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