五味川純平著『人間の條件』を読む ― その2 ―
もう一枚の版画、浜田知明作『初年兵哀歌(歩哨)』(1954年)。銃口を喉にあて左足の親指で銃の引鉄をいままさにひこうとしている男。浜田の代表作のひとつです。『人間の條件』第三部は、満州東部国境でソ連軍の侵攻に備える関東軍が舞台になります。召集された梶が直面したのは、敵との戦闘や爆撃ではなく、軍隊内部での陰湿で理不尽な暴力の連鎖でした。徹底的に苛め抜かれた初年兵・小原は、浜田の『歩哨』の初年兵となって、自死します。
防火用水桶から煙草の吸殻が発見され、当番の小原二等兵が責められ、二度、三度と殴打される。ある古兵の仕業だとわかっても、小原は口をつぐみ、梶とともに零下32℃の闇の舎外へ、水汲みに出て行かされる。極度の近視の小原は、水汲みひとつ満足にできない。いわんや射撃訓練では、一発も命中できない。小原は殴られ、馬鹿者死ね、と罵られ、ただ絶望的に慄えるばかり。最後は、標的までの300mの射撃刺突の罰。
班長から命ぜられた家族への遺言。小原は、歪み合う妻と母親に、心配で死んでも死にきれない、仲良くしてくれ、と哀願する。隊長から「軍人の遺言とは、出陣の覚悟を家人に伝えるもの」であるから、小原の遺言は女々しい心情だと叱責、書き直しを命じられる。そのうえ准尉から、往復400mを執銃帯剣で駈足往復十回が命じられた。小原の体力の限界を超えるものだ。
重量30㎏の完全武装での約50㎞の移動演習。午前6時に出発し午後6時以後に帰着した者は、落伍者だ。初年兵たちは、炎天に打ちのめされ犬のように喘ぎながら歩く。小原はよろめき、躓く。装具の一部を梶に持ってもらっても、小原はぴっこを引き、息切れする。そして歩く気力を失い、ついに草の中に体を投げ出した。演習後、落伍者小原二等兵に待っていたのは、古兵たちからのビンタと屈辱的な制裁だった。「ちょっと、兄さん、寄ってらっしゃいよ。ちょっと、そこのいなせなお兄さんたら、あがってちょうだいよ……」。強いられた女郎の愚劣な真似は、小原にとって、死ぬ思いの行軍や顔が曲がるほどの殴打よりも耐えやすい。「知らぬ間に人間が卑屈になっている。肉体の苦痛よりも辱しめを選ぶ。暴力の恐怖に晒されれば、どんな醜悪な真似でもするのだ」。しかし、執拗な女郎ごっこの末、古兵たちから強烈に投げ飛ばされ、はじき飛ばされた眼鏡を追って床を這いずり回り、手を踏みつけられ頭を床に踏みつけられ、罵倒されつづけた。「小原は、一方の硝子が壊れた眼鏡を持って、痴呆のように立っていた。板内の怖ろしい打撃の痛みも殆ど感じなかった。突如として行くてに暗黒の虚無が立ちはだかったようである。どの瞬間であったか、明瞭ではない。小原は周囲のすべてから切断されている自分を意識した。その感じだけは明瞭であった。」
その夜、不寝番に立った小原は、便所掃除の道具を入れてある狭い物置に入った。銃を立てかけ、隠しておいた一発の実包をとり出す。
「掌の上の実包は、冷たく、静かに、待っていた。小原は音を忍んで装填した。皮肉なものだ。一発も命中弾が出ずに罵倒されつづけた小原が、正にその九九式短小銃によって自分を射とうとする。銃口を顎の下にあてがう。これなら絶対に命中するだろう。小原が出し得た最初で最後の命中弾だ。竹箒から手ごろな太さを選んで、一本折り取った。それを用心鉄に通して、引鉄に乗せた。あとは、踏むだけだ。
小原はじっとり脂汗をかいて、慄えていた。怖いようでもある。死は永久の未知だから、ただそれだけの理由によって怖いのだ。小気味よくもあった。ぞくぞくするほどだ。軍隊がどれだけ凄まじい権力機構であるにしても、たかが二等兵一人の自殺をさえ禁止することは出来ないのだ。命令も絶対ではない。権力も存外狭い限界の中にしかない。
竹を見下ろした。よくは見えなかった。早く踏んだ方がいい。怖くなるかもしれない。こうして、虫ケラのような男が消える。臆病な、それでもまた勇敢でもある小原二等兵が。おふくろは、便所の中で自殺するために息子を生んで育てたのではなかったが、彼を愛することでその原因の一つを作ったのだ。女房は、彼との倖せを希いはしたが、その愛する男を或る夜便所の片隅へ追いやって殺す手伝いをしたのだ。軍隊は、彼の自信を失わせるために召集し、生きる望みを奪うために教育し、最後には犯罪人以下の自殺者として蔑むのだ。お前のような奴は、早く死んじまったほうがいいぞ! どう云われても結構だ。ちょいと兄さん、寄ってらっしゃいよ。誰も、もう、小原にそう云わせることは出来ない。小原二等兵は、こうして楽になる。早く踏め!」。(五味川純平著作集第二巻『人間の條件(2)』p.p.179、180)
『人間の條件』の小原自殺の場面を読んだ時、すぐに連想したのは浜田知明の版画『初年兵哀歌(歩哨)』でした。暗く狭い部屋、顔ばかり大きく痩せ衰えた兵隊、九九式短小銃、銃口を顎の下にあてがい、はだしの足の指先がいま、引鉄を引こうとしている。浜田知明が行軍した中原でも五味川純平が召集された満州でも、下士官や古兵による執拗で残酷な苛めによって、初年兵たちが死に追いやられたことを、観者であり読者である私たちは、痛切な思いで知ることになりました。
浜田知明作『初年兵哀歌(歩哨)』(1954年)
小説『人間の條件』は1955年に発表され、1300万部を超える大ベストセラーになりました。また映画『人間の條件』は1959年から1961年にかけて公開され、日本国内外の多数の映画賞を受賞し、多くの観客を動員しました。このように、1960年代前後の日本社会は、日本の植民地支配と海外侵略を真正面に見つめ、日本人の加害体験を赤裸々に表現しょうとした小説家や映画人、版画家を、輩出しました。そして多くの国民がそれを受け入れ、激励しました。この表現者たちを媒介者にして、日本人の戦争体験と加害責任への自覚的な記憶が、戦争を知らない世代へと引き継がれたのだと思います。こうした戦後の歴史を、今一度、思い起こしたい。
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