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2019年7月24日 (水)

北ドイツ周遊記-ベルリンの2日目-

7/1 ベルリン 再びBerlin

   ベルリンの2日目、まずグルーネヴァルト駅「17番線」にいった。1941年秋から1945年春までに、ベルリンの5万人以上のユダヤ人が、この17番線から各地の絶滅収容所へ送られた。輸送には家畜用などの貨物列車が使われ、狭い車両に100人以上の人間が押し込まれた。目的地に到着するまでは、水も食料も与えられず、トイレすらままならなかった。幼児や年寄り、病弱者のなかから衰弱のうえ死亡するものもいた。ドイツ映画『アウシュヴィッツ行最終列車 ヒトラー第3帝国ホロコースト』(2006年製作)は、貨物列車のなかの人びとが喘ぎ苦しむ様子を、リアルに伝えていた。

   グルーネヴァルト駅の正面右側のゆるい坂を上っていくと通路の左側に、「17番線」から強制連行されたユダヤ人が歩いているところをイメージしたという石壁のモニュメントがあった。その隣に、「人間の生命や尊厳をないがしろにするいかなることにも、勇敢に躊躇なく立ち向かわなければならない」と警告し、移送のうえ殺害されたユダヤ人を追悼する石碑が建っていた。

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   石壁のモニュメントを通り過ぎてまもなく、記念碑となった17番線のプラットフォームがあった。この線路の先に絶滅収容所があったのだと想像する。〈18.10.1941 / 1251 JUDEN / Berlin-LODZ〉と刻まれた鉄のプレートがあった。ここ17番線から出発した最初の列車記録である。「1941年10月18日、1251人のユダヤ人がベルリンからロッジに向け移送された」。こうしたプレートが、プラットホームの両側に186枚はめ込まれていた。186回のすべての強制移送を記録するものだ。

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   「この日、1000人のユダヤ人が移送された」と記録されたあるプレートには、小さな紙きれが置かれ、次のように記されていた。
        1943/01/29 ベルリン-›アウシュヴィッツ
        シャルロッテ ・ ベルリーナ 56歳
        ・1886/04/02生まれ
        ・アウシュヴィッツで殺害

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   移送された1000人のなかのひとり、ベルリーナさんの親族か縁者がこの地を訪れ、この小さな白い紙を置いたのだと想像する。親子連れがやってきて、プレートの文字を追いながら、花を手向けていた。

   私たちも、白い紙きれに記録された最年少と最年長の犠牲者に、駅の花屋さんで買ったひまわりの花束を手向けた。最年少者の年齢、2ケ月と16日。そして最高齢者は95歳だった。

      最年少者の記録
           
     1943/02/19,  ベルリン-アウシュヴィッツ     
                ウーリ・ヴァイスバールト-年齢2カ月16日
                ・1943/01/02 生れ
                ・アウシュヴィッツにて殺害

        最高齢者の記録 
                 1942/06/02, ベルリン-テレツィン
                 ヨハンナ・グムペル-95歳    
                     ・1847生れ
                       ・1942/11/29、テレツィンにて殺害

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   私が、版画家・彫刻家のケーテ・コルヴィッツのこと知った切っ掛けは、今回の旅行を企画していたときネット情報から、宮本百合子や魯迅が彼女の貧困や戦争を題材にした版画を高く評価していたことだ。また、かつてイタリア・ルネサンスについて何冊かの著書を読んだことのある若桑みどりが、まさに『ケーテ・コルヴィッツ』(1993刊)という著書をものにしていた。さっそく図書館で借りて読み、コルヴィッツ美術館での作品鑑賞の手引きとした。

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   たとえば、コルヴィッツ作品のなかで一番印象深かった作品『踏みにじられたものたちよ』(1900 写真左)について、若桑みどりは次のように解説する。

   「死んだ男の布はグリューネヴァルトのように先鋭になった。・・・右には、巨大な柱に括りつけられて嘆く裸体の女と、それをみるもう一人の女が描かれている。肉体を凌辱されたような恥辱をあらわにして縛り付けられている女性は「奴隷」が寓意であり、彼女を見守る若々しい肉体の女性は「自由」であろう。コルヴィッツはこの作品で金賞をうけ、皇帝によって受賞は拒否されたが、一躍名声を確立した。」

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   前日すでに、ノイエ・ヴァッヘでコルヴィッツの『ピエタ』のレプリカをみたのだが、当館では数点の彫刻を観ることができた。いずれもコルヴィッツの女たちは、貧困と戦争からくる悲しみをこらえながらも、懸命に子どもたちを守ろうとしている。

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   コルヴィッツ美術館前のファザーネン通りは、美術商のギャラリーやアンティークの店がいくつかあり、アート街の様相だ。この通りをカイザー・ヴィルヘルム記念教会に向かって歩いていた時、ある店舗前の歩道の敷石に10㌢四方の金色に光る真鍮板がはめ込まれているのを見つけた。その1枚には、次のような文字が刻まれていた。

                               HIER WOHNTE                                         ここに住んでいた
                                MARGARETHE                                             マルガレーテ
                                  SCHUBERT                                                  シュベルト
                                   JG.1894                                                  1894生まれ
                            FLUCHT IN DEN TOD                                     逃亡を試みて死亡 
                                   11.3.1943                                                 1943/3/11
        

   「つまづきの石」Stolpersteineだ。ケルンの彫刻家グンタ―・デミニングGunter Deminingが1993年、ユダヤ人などナチスの犠牲になった一人ひとりを記憶しつづけるために、彼らが実際に住んでいた場所に「つまづきの石」を設置するプロジェクトを立ち上げた。「歴史を風化させてはならない」という思いは広く共感を呼び、その後、プロジェクトはドイツ国内はじめヨーロッパの多くの都市に広がった。プロジェクトでは、一つひとつの石にスポンサーが付き、石1個につき120ユーロを払い、その石に対して管理責任も負う。スポンサーは個人・団体とも可能で、いまなお募集中だ。現在世界で186都市・約9000個の石が敷かれるまでになった、という(ブログ岩本順子『ドイツの街角から』)。ここでも、記憶・記録と追悼の対象は、あくまでも個人である。

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 ベルリン大空襲の無惨な傷跡を残したカイザー・ヴィルヘルム記念教会では、オーケストラによるリハーサルが行われていた。その夜、コンサートが開かれるようだ。ドイツ人指揮者が指導していた楽団は、フィリィピンからきた音楽学校の生徒たちのようだった。若者たちの奏でる美しい音色に、しばらく耳を傾けた。アジアの国々に拡がるクラシック音楽の幅広い展開に、思わずうれしくなった。

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   ベルリン最後の訪問地は、ドイツ連邦議会議事堂だ。ヒトラーが政権に就いた直後の1933年2月27日、国会議事堂は何者かによって放火された。ヒトラーはこの事件をきっかけに、共産党や社会民主党を弾圧し、基本的人権や労働者の権利を停止させた。放火された議事堂は、1945年の大空襲でも被害を受け、半世紀の間放置されたまま置かれ、東西ドイツ統一後の1999年になって、現在の議事堂の姿に修復された。議事堂の内部見学には、数日前からの予約が必要で、残念ながら今回は実現しなかった。外から見た議事堂は、「これがドイツだ!」と誇示しているようで、その威容さに圧倒された。

   議事堂横を流れる運河沿いの鉄製の柵に、7本の白色の十字架が取り付けてあった。一番手前の十字架には、「ギュンター・リトフィン ♰1961.8.24」と記されていた。ギュンター・リトフン(24)は、ベルリンの壁から逃亡を図り殺害された最初の犠牲者だ。1961年の夏、東ベルリンに住み西ベルリンの仕立て屋に勤めていたリトフィンは、勤め先の近くに引っ越しする準備をしていた。しかし、8月13日のベルリンの壁の建設によって、リトフィンは食も住まいも失ってしまった。8月24日、西ベルリンへの逃亡をはかって壁を乗り越え、運河に飛び込んで泳いでいるところを、警察官によって銃撃され、そのまま運河の底に沈んでいった。ベルリンの壁の最後の犠牲者クリス・ギュフロイ(20)は、壁崩壊のわずか9カ月前の1989年2月5日に殺害されている。この間に殺害された犠牲者は、136人に上るという。私の生きた同時代にベルリンで起こった悲劇の数々に、思わず戦慄を覚える。

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   ベルリンからポツダムへの帰り道、ヴァンゼー湖畔に建つヴァンゼー会議記念館を訪ねた。今回のベルリンのホロコーストの遺跡を訪ねる旅の最終目的地だ。残念ながら、記念館は5分前に閉館になったばかりで、門の外から眺めるだけになった。
   ヴァンゼー会議は、1942年1月20日、ナチス親衛隊とドイツ政府高官がこの館に集まり、ヨーロッパのユダヤ人絶滅計画を決定したところとして知られる。この会議を主導したのは、ヒトラーの側近で親衛隊の総責任者ハインリッヒ・ヒムラーの副官、ラインハルト・ハイドリッヒ国家保安本部長官だった。そしてその忠実な部下にして有能な能吏だったのが、アイヒマンだ。英米共同制作のテレビ映画『謀議』(2001制作)が、この会議の様子を生々しく伝えている。最初はハイドリッヒの提案に反発し嫌悪感すら抱いていた高官たちが、徐々に議論に飲み込まれて行き、ついに積極的にユダヤ人絶滅計画にのめり込んでいくプロセスは、思わず息をのむようだった。

   ヴァンゼーでは記念館を訪ねることが出来なかったが、夕食によった湖畔のレストランで、湖水地方といってもいいほど湖の多いポツダムで、はじめて湖畔に出ることが出来た。4日間をすごしたアパート近くの湖畔は、ほとんどが私有地のようになっており、有刺鉄線が張り巡らされていて、近づくことが出来なかったのだ。ヴァンゼー湖畔は、湖水浴やヨットを楽しむ人たちでにぎわっており、湖畔周囲にはおおきな邸宅がぽつぽつ建っていた。

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   ヴァンゼー湖をあとにアパートへの帰り道、大きな鉄橋を渡った。橋のたもとには、Glienicker Brückeの看板が立っており、あのスパイ交換の行われたグリーニッケ橋であることを確認した。スパイ交換とは、冷戦時代の1957年、ソ連のスパイとしてFBIに逮捕されたルドルフ・アベルと、1960年のU-2撃墜事件ソ連の捕虜となったフランシス・ゲイリー・パワーズとの交換が、1962年2月10日、この橋の上で行われたのだ。ベルリンとその周辺は、どこへいっても現代史の重要な舞台に遭遇する。こうして、ベルリンとポツダムの現代史の旅は、当初の予定を大幅に超えて、終えることが出来た。娘とフィアットとスマホの取り合わせが、現地案内人なしの難しい旅を可能にしてくれたと感謝する。

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