北ドイツ周遊記-ベルリン-
6/30 ベルリン Berlin
月を跨いで2日間、ベルリンの街を歩く予定だ。ホロコーストの記憶の場を訪ねること、そしてルネサンス絵画とケーテ・コルヴィッツの版画を観ることが目的である。
ベルリンの代表的な街路であるウンター・デン・リンデンの車道脇に車を止め、ベルリン散策をはじめた。幸い、日曜日は無料での駐車可だった。初めに向かったのが、ノイエ・ヴァッヘ(新衛兵所)。19世紀初め、衛兵所として建設されたノイエ・ヴァッヘは、ドイツ再統一後の1993年、ドイツ連邦政府によって戦没者追悼施設として「国民追悼の日」(11月第3日曜日)の式典会場となった。内部はがらんどうとした広い空間が広がり、中央の採光取りのための円窓の真下に、一体の彫刻があった。版画家・彫刻家のケーテ・コルヴィッツの作品『ピエタ』(1937)の拡大レプリカである。死んだ息子を抱える母親像であるが、第一次世界大戦で戦死したケーテの次男ピーターがモデルである。
ノイエ・ヴァッヘの出口の壁に、戦争と暴力支配の犠牲者に対する追悼の詩が、ドイツ語とともに日本語訳も掲げられていた。全文を書き記しておく。
ノイエヴァッヘ
戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ連邦共和国中央慰霊館
ノイエヴァッヘは 戦争と暴力支配の犠牲者に対する 記憶と追悼の場である
我々は、戦争で苦しんだ各民族に思いをいたす。
我々は、そうした民族の一員で迫害され命を失った人々に思いをいたす。
我々は、世界大戦の戦没者たちに思いをいたす。
我々は、戦争と戦争の結果により故郷で、捕らわれの身で,また追放の身でそれぞれ命を落とした罪なき人々に思いをいたす。
我々は殺害された何百万ものユダヤの人々に思いをいたす。
我々は、殺害されたシンティ・ロマの人々に思いをいたす。
我々は、その出自、その同性愛、その病いや弱さゆえにそれぞれ殺されていった全ての人々に思いをいたす。
我々は生きる権利を否定され殺害された全ての人々に思いをいたす。
我々は、宗教や政治的信念ゆえに命を落とさなければならなかった人々に思いをいたす。
我々は暴力支配に抵抗し命を犠牲にした女性たちや男性たちに思いをいたす。
我々は自らの良心を曲げるより死を受け入れた全ての人々の栄誉を讃える。
我々は、1945年以降の全体主義独裁に逆らったために迫害され殺害された女性たちや男性たちに思いをいたす。
(追悼の詩 以上)
ノイエヴァッヘの斜め向かいに、国立オペラ劇場とフンヴォルト大学旧図書館(写真上左)に囲まれたべーベル広場がある。若者たちが足元の敷石を見降ろし、先生らしい男性の話を聞いている。近づいてみると、若者たちの足元には、透明のアクリル板がはめ込まれており、その下の地下には、空っぽになった書棚が並んでいた。1933年5月10日、ナチ思想に共鳴した学生たちによって、約2万冊もの書物が焼却された「ナチス焚書事件」の現場である。マルクス、フロイト、アインシュタイン、ブレヒト、ケストナー、ハイネなどの本が焼かれたという。近くに、ハイネの警告の言葉が刻まれた金属板が、敷石の上に貼り付けてあった。ミハ・ウルマン作『図書館』(1995制作・イスラエル)。
「これは序章に過ぎない。書物が焼かれるところでは、いずれ人間も焼かれるようになる。ハインリッヒ・ハイネ 1820年」(日本語訳はWikipedia「ナチス・ドイツの焚書」から)
菩提樹の並木道ウンター・デン・リンデンをフリードリッヒ大王の騎馬像を右手に見ながら西に向かうと、やがてブランデンブルク門が見えてきた。ベルリンを最も象徴する建造物だ。1961年8月に建設されたベルリンの壁は、この門の向こう側を走っており、1989年の壁崩壊までは、周辺は無人地帯となっていた。門の上には、4頭立ての馬車に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像がある。ヴィクトリアのもつ杖の先には、鉄十字紋章が取り付けられている。
ブランデンブルク門を左に曲がり、南に向かって歩いていくと、石棺のようなコンクリート群が現れた。ベルリンの「ホロコーストの記憶」の中心施設のひとつ、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」である。アウシュヴィッツ開放60周年の2005年、ドイツ政府によって建造された。ジャーナリストや歴史家が呼びかけ、市民グループの支援運動が政府を動かしたという。
記念碑は、2,700個のコンクリートの角柱からなる「石碑の広場」(19,000㎡)と、その地下にある「情報の場」からできている。石碑は、上から見た平面は同じ長方形ながら、高さの違う直方体からできている。人が通路に入るとその姿が徐々に見えなくなり、まるで迷路のなかにいるようだ。これは、ユダヤ人が悲劇の歴史をさ迷い「救いようがなかったことを体験してもらいたい」という思いで設計されたという。石碑にのぼってポーズをとり写真を撮りあうアジア人の若い女性がいた。
この日のベルリンは、38度を記録する猛暑日となり、日曜日も重なって人出はあまり多くない。しかし、セキュリティー・チェックを受けて地下の「情報の場」へ降りていくと、多くの人びとが展示物を熱心に見入っていた。各年代の人たちが満遍なく来場しているようだが、日本の各種歴史ミュージアムへの来場者と比較すると、高齢者が少なく若者が圧倒的に多いことに驚き、強烈な印象をうけた。夏休みに入ったばかりの生徒や学生たちも、多く来ていた。入口に、イタりア人作家でアウシュヴィッツからの生還者であるブリーモ・ミケーレ・リーヴィ(1919-1987)の次の言葉が、掲げられていた。
「それは起こった。だから、それはまた起こり得ることだ。このことこそ我々が言わなければならない核心である。」
「情報の場」の最初は、1933~45年間のナチスのテロの歴史を、写真と文章で追っていた。その奥にあった6枚の大きなポートレートは、約600万人の犠牲者を表現している、とリーフレットにあった。
「次元の空間」(写真上)と名づけられた部屋には、犠牲者の日記や手紙が、床に張ったアクリル板に映し出されていた。母親が子どもに書いたと思われる手紙には、これから相談する人を指名し、抱きしめたい思いを記し、神様のご加護を祈り、そして最後に、永遠の別れの言葉で結んでいた。また、「家族の空間」(写真下)にあったある家族のパネルには、次のような記録が記されていた。
「ヒルシュ家は、ハンガリーのべケスカバで、リベラルなユダヤ人コミュニティに属していた。親たちは商店主だったが、ドイツ軍がハンガリーを占領したとき、この家族は何10万ものハンガリー系ユダヤ人とともに、ナチの絶滅政策の下に置かれた。母親のエラと息子のガボールは1944年6月、占領下のポーランドへ国外追放された。エラ・フィルシュは、1944年の末、ダンツィッヒ(グダニスク)近くのシュトゥットホーフ強制収容所で死亡した。ガボールは1945年、アウシュヴィッツから解放された。彼の父親は、ハンガリー軍の強制労働者として生き残った。」
このように、犠牲者の名前と写真、経歴、殺害の経緯が、記録されていた。印象的だったのは、ユダヤ人一般ではなくあくまでも名前と顔のある「個人」へのこだわりを強く感じたことだ。来場者はパネルの前に立ち止まり、ゆっくりと時間をかけて、これらの記録を読みつづけていた。ああ、このようにして、ドイツ人あるいはドイツ社会の加害者としての記憶が、次世代に引き継がれていくのだなあ、と思った。
今年初めて体験する猛暑日、その暑さを避けるため、午後は冷房の効いた絵画館で過ごすことにした。絵画館に向かう途中、公園の入口にゲーテ像があった。ゲーテ像は、他の街でもときどき見かけた。柔和だがきりっとした表情がいい。
公園の森を通り抜けると、目の前に金色の建物が現れた。ベルリン・フィルの本拠地、ベルリン・フィルハーモニーである。その近くに、透きとおった青色のガラス板があった。「T4作戦」犠牲者の慰霊と記念の碑だ。「T4作戦」は、NHKのドキュメンタリー番組でも放映されたが、ナチスの優生学思想にもとづく安楽死作戦で、ベルリン・フィルハーモニーの所在地にナチス政権の「安楽死管理局」があり、その住所「ティーアガルテン通り4番地」から命名されたもの。1939年10月から障害者の殺害を開始した。ここにも、犠牲者となった個人の記録が残されていた。
「靴職人のマーチン・バーダーは1938年、パーキンソン病のため病院に入院していたが、1940年グラフェネックで殺害された。戦後、当局はバーダーがナチの犠牲者であったことを認めず、彼の家族へのいかなる補償も拒絶した。マーチン・バーダー1901-1940」
グラフェネックは、「T4作戦」で「生きるに値しない命」と判断された人びとを、一酸化炭素ガスで殺害するために設置された6か所の絶滅収容所の一つである。
絵画館に入ると、猛暑のなか噴き出ていた汗が、一気に引っ込んだ。朝の10時過ぎから13時までの3時間ばかりの散策であったが、少し疲れた。ここで、夕方まで過ごそう。幸い、絵画館は空いていた。イタリア、ネーデルランド、ドイツ、フランスなどのルネサンス期の作品コレクションが、まばゆいばかりに並んでいた。大震災の次の年、上野の西洋美術館で「国立ベルリン美術館展」が開催され、観にいったことを覚えている。その時は、フェルメールの『真珠の首飾りの少女』の初来日が喧伝され、チケット売り場で長蛇の列に並び、展示室入り口でまた並び、ついにたどり着いた『真珠の少女』の前では、「立ち止まらないでください !」との注意を受ける始末。その時の上野の喧騒を思うと、ベルリン絵画館の人の少なさと静寂は、まるで別世界だ。ヨーロッパ旅行者に特典があるとすれば、こうした美術館の静寂こそがそれにあたる。
イタリアからは、ボッティチェリ、ラファエロ、カラヴァッジョ、ティッツィアーノが、ネーデルランドからは、ボッシュ、ブリューゲル、フェルメール、ルーベンス、レンブラントが、ドイツはデューラーやクラナッハ、そしてフランスのラ・トゥールの作品もあった。4時間半、至福の時を過ごした。
長時間の絵画館滞在で、今度は逆に、身体が冷え切った。再び、猛暑の世界に戻ろう。ポツダム広場を経て、今日の最後に目的地、「テロのトポグラフィー」を訪れる。ここは、かつてナチスの秘密国家警察ゲシュタポやナチス親衛隊SSの本部があった跡地で、ナチス政権の膨大な非行の記録を後世に残し、歴史を繰り返さないためにできたドキュメンタリーセンターである。ナチスのトップから末端に至るまで、加害者もまた、個人への追及が貫徹されている。
ここでも、多くの若者の来場者に出会った。若者たちは、目を背けたくなるようなナチスの蛮行を撮った写真に、くぎ付けになっている。ドイツ社会の歴史を記憶しつづけようとする並々ならぬ決意とそれを担保する仕掛けに、つくづく感心し心を動かされた。
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郡山さん、はじめまして。僕は、淳子さんと大阪の茨木高校で同じクラスでした。僕も関東に住んでいるので(千葉県習志野市)、茨木高校の関東地区の同窓会では、淳子さんとご一緒させてもらっています。今回の郡山さんのブログは、僕の今年の年賀状で「ドイツに行ってドイツ人がみずからの戦争犯罪にどう向かい合ったか、を知りたいとおもいながらコロナ禍で旅行ができず残念」と書いたのを淳子さんがみて、郡山さんのブログを紹介してくれました。郡山さんんpブログは、歴史から芸術などだけでなく、興味深いものがいっぱいあるようですが、今日は、北ドイツ(ベルリン)旅行記だけをよみました。Neue Wacheだけでなく、ドイツの記念碑(館)では、靖国神社の遊就館とは違い、戦争の被害だけでなく、加害の事実を一般化することであいまにすることなく、個人の問題として提示し、自問するように働きかけていることをブログでしりました。沖縄の平和の礎も、沖縄戦で犠牲になった日本人だけでなく、アメリカ人・朝鮮人をふくめ、戦争の犠牲者を日本人だけに限定せず、その意味では、ナショナリズムを克服しているようにおもうのですが、個人の名前が書いてあるだけで、死亡した一人一人の歴史があった筈なのに、一行も書かれていない限界があります。このようにかけば、ドイツの戦争記念碑はいいことずくめのように思いのですが、ドイツの歴史記念碑(館)は、ナチスだけを悪者にして、ナチス以外は犠牲者であったとして、自らナチスを支持したこと、あるいは、自分(または自分の夫や息子)が国防軍の一員として、ポーランド人など多くの人を虐待し、殺害したこと、またはそれに手を貸したことを忘れようと努力してきたことも、忘れてはならないことだと思います。このようなことを郡山さんのブログを読んで改めてかんじました。あと、記憶に残っているのは、これらの記念碑(館)の見学者は、日本と違って、若者が圧倒的におおいことをしりました。これはおそらく、歴史教科者とその教え方の差だと思います。ドイツの高校の歴史教科書の一部を読んだことがありますが、ドイツの教科書は問題を提起し、生徒たちに議論させて、考えさせることを第一優先にしている。それは、韓国の教科書でも見られることですが、日本の教科書は多くの事実を覚えさせるが優先で、考えることを後回しにしている結果かな、と想像します。ひきつづき、北ドイツ(ベルリン)旅行記以外の記事も、適宜読んでみたいと思っています。
投稿: 梶原 嘉門 | 2022年1月 6日 (木) 15時13分