北ドイツ周遊記-ポツダム-
6/29 ポツダム Potsdam
前日、ポツダムのクランプニッツ湖Krampnitz see近くのアパートに到着、ここで4泊し、ポツダムとベルリン見学の拠点とすることにした。今回の旅行の宿泊についてはすべて、同行する娘が宿泊サイトbooking.comで予約したもの。このアパートは、ネット予約しすでにクレジット決済を終えていた。到着すると娘の名前を書いた紙が部屋の入口に貼ってあり、キーがカギ穴に差し込んであった。勝手に入って部屋を利用してくれ、ということだ。4泊5日の間、家主からは一切の干渉や口掛けはなかった。簡単な食事を作ることもできる。これが「民泊」というものなのか。といっても、家主への到着と出発の挨拶は勿論、やったが。
29日は終日、ポツダムの宮殿巡りをした。まずサンスーシー宮殿 Schloss Sanssoucへ。プロイセン王国時代の1745-1747年に、フリードリッヒ2世の命によって建てられた。当初は夏の離宮として建てられたが、結果的にはフリードリッヒ2世の居城として機能した。全長100メートル、部屋数12の大きな宮殿だ。内装は壁から天井まで、金色や色とりどりの花柄や植物文様で飾られており、工芸細工の凝った長椅子や整理箪笥が置かれている。ガイド・イヤフォンからは、これらを「フリードリッヒ式ロココ」と称すると案内された。
宮殿の最後の部屋の壁には、花や果実をつけた樹木の枝で、リスや猿、鳥たちが餌をついばだり遊んだりしているレリーフがあり、目を楽しませてくれた。
新宮殿に向かう途中、ギリシャの神々をモデルにした彫刻があちこちに立っており、真夏日の青空に生えてその躍動する姿が美しい。
留守宅の妻から、週末はサハラ砂漠からの熱風がヨーロッパ各地を襲うだろう、という天気予報を伝えられていたが、そのせいか、新宮殿への30分ほどの距離が、暑さのなかやたら遠く感じられた。
新宮殿は、領土をめぐるオーストリアとの7年戦争(1756-1763)のあと、フリードリッヒ2世が国威発揚と経済対策のため、ヴェルサイユ宮殿を模して建設された宮殿だ、という。宮殿内部の大理石の回廊や貝殻を使った壁の装飾は、金銀装飾にもまして絢爛豪華である。この春、帰京の際たずねた、桂離宮や修学院離宮の簡素で洗練された日本の離宮のことを思い、彼我の美意識の違いや権力の在り様の差に驚くばかりだ。
ポツダムといえば、私たちはなによりも「ポツダム会談」をイメージする。そのポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿Schloss Cecilienhofを訪ねた。1917年に建設されたというから、まだ新しい宮殿だ。ここで、1945年7月、米・英・ソ3か国首脳が会し、第2次世界大戦の戦後処理について話し合われた。会議のあった円テーブル中央には、3か国の国旗が置いてある。そして、会議の主役たち、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの写真が壁に掲げられていた。日本にとっても、戦後の出発点は、この地にあったわけである。先の宮殿と比べ、建物の色調は落ち着き、部屋のなかの調度品や装飾も地味で、好もしい感じをうけた。なぜか5本の異なったデザインの煙突が立っていた。
夜、アパートの部屋で、スーパーで買ってきたハムやチーズをつまみにワインとビールを飲みながら、娘の誕生日を祝う。異国の地で、父と娘は、心地よく酔う。
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