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2022年1月21日 (金)

冨岡『世界』を読む会・1月例会より

 富岡『世界』を読む会・1月例会は1月19日、5人が参加して開かれた。
 テーマは『世界』1月号から、「特集1.ケア - 人を支え、社会を変える」の岡野八代『ケア/ジェンダー/民主主義』と村上靖彦『ケアから社会を組み立てる』の2論考、そして「特集2.気候危機と民主主義-COP26からの出発」の飯田哲也『複合危機とエネルギーの未來』と小西雅子『COP26はどこまで到達したか?』の2論考、計4つの論考を対象に意見交換した。

1.ケアについて 
「ケア」については、身近な問題であるのにかかわらず、これまで学んだり話し合ったりする機会がほとんどなかった。今回の岡野論文はケアについて、わかりよく包括的に問題点が整理され、ケアの重要性と必要性を学ぶいい機会となった。これが参加者一同の共通の感想だった。
 まず、ケアとはどのような営みなのか。筆者の定義。ケアとは「他者の手を借りなければ、自らの生存に必要な活動―食事・身の回り世話・安全確保・生命維持―に困難を抱える人たちのために、生きるために必要なものを満たす活動・営み・実践」である。幼少と老齢の時期、障がいを抱えたとき、あるいは病気と怪我のとき、すべての人間が必ず通過する人生の重要な場面だ。そのケアの現状と問題点は何か。岡野の提示する3つのキーワードから考える。

 まず、「ケア関係は開放的な関係」ということについて。岡野氏は言う。「ケア関係は常に、ケアの受け手だけでなく与え手の生計と福祉のための資源を供給する外部を必要とする。」しかし現実は、家父長的な家族規範とケア責任を家族へと閉じ込めようとする制度的・社会的圧力が、ケア関係を閉鎖的にしている。こうして、女性や外国人などの社会的弱者に、ケアが押し付けられる。
 二つ目のキーワードは、「ケア・ペナルティ」。岡野氏は、ケアの自己責任化を強いる新自由主義のもと、ケアの不当な価値の切り下げとケアを担う人たちの政治的交渉力のなさを、ケア・ペナルティと呼ぶ。そして「経済的・時間的に貧困な女性の多くは、ケアを担うことで/担わされることで、ペナルティを科せられている、踏んだり蹴ったりの状態だ」。
 三つ目は、「ケア・パラドクス」。①すべての人間はケアの受け手。しかし、ケアを一部の者に押し付けてきた。➁ケアは人間社会の根幹、個人の人格に関わる不可欠の実践。しかし、ケアの社会的評価が低い。③ケア関係は開放的。しかし、ケア関係を支えるのは、閉じられた社会的弱者の家族。 
 岡野氏は、このパラドクスを解く鍵は、民主主義にあるとし、「ケアを政治の中枢へと移動させ、開放的なケア関係を社会全体で支える仕組み」を作るべきだと提起した。

 話し合いでは、ケア労働に対する社会の無関心や政治の不作為について、怒りの声が上がった。また、地元の医療法人が、次々と高齢者施設を設立し、医療施設も増設していることを見て、「ケアは儲かる」と病院経営者は考えているのではないか、という指摘があった。「ケアはただ」とか「家庭内での女性の仕事」という常識がいまだまかり通っている、という感想があった。「ケアの報酬は公的に決定」すべきとの岡野の主張に賛成し、行政の取り組みが重要だとの発言があった。外国人、とくにフィリッピン女性が、重要なケアの担い手となっていることについて話題となった。彼女たちは、ひたすら他人(ひと)を支えるばかりで、自分たちを支える手立てを持っていないのではないか、と懸念する声が挙げられた。
 話し合いの後半は、参加者が直面したり心配している自分事のケアが話題となった。90代の義母の世話をしているが、自分の心身の弱体化を痛感し、自らのケアの必要性を感じている。自分が病気で倒れたら、息子は一方的に施設へ送るだろうと思うと、涙がでてきた。母親を自宅で看取ったが、このことが本当によかったのかどうか、未だわからない。等など。「ケア」を対象化して論ずるには、あまりにも身近な問題であるためか、ケアの社会的・政治的議論よりも自分事の話題に関心が集まった。

2.気候危機について
 『世界』は、気候危機について最も積極的に取り上げてきた論壇誌のひとつ。そのオピニオン・リーダーの一人が、飯田哲也氏だ。飯田論文から「気候危機論争」をみる。
 エコモダニスト とエコラディカル(脱成長論)。前者は、技術革新による気候危機回避と経済成長をデカップリング(切り離す)ことで、環境悪化を抑えつつ経済成長を続けることが可能だとする。原発・炭素回収・ジオエンジニアリングなどテクノロジー万能論。後者は、気候危機の深因は際限なき経済成長にあるとし、資本主義の格差・貧困とともに、無限の経済成長に終止符を打つべきと主張する。短期間の劇的なテクノロジーの新機軸を求めるエコモダニストも、脱成長・社会経済的変化を求めるエコラディカルも、COP26の目標「2050年世界の温室効果ガス排出量実質ゼロ」のための時間的実現性に疑問がある。
 日本政府の立場は、ほぼエコモダニストの立場だといえる。飯田氏も、脱成長論を排し、飛躍的技術革新による気候危機対策を取る意味で、エコモダニストの立場に近い。太陽光・風力発電、EV、AIなどのイノベーションは、文明史的な大転換を引き起こし、無尽蔵で永続的な太陽エネルギ―文明への移行と歌い上げる。飯田氏のエコモダニストとの違いは、原発・炭素回収などへのネガティブな評価だ。また、際限なき欲望と無限成長から「低エネルギー社会」への転換を訴え、社会・経済的変化をも求めている。飯田氏の立ち位置は、エコモダニストとエコラディカルのあいだにあるといってよい。

 気候危機はケアとは逆に、必ずしも身近な問題ではなく、自分事としての意識が薄い。そこで参加者の一人は「山が燃えさかっているのに、家の中で平然と生活している状態」と気候危機を表現した。気候危機・脱炭素を自分の問題として何ができるか。群馬という地方で生活し、自動車のない生活は考えられない。EV車への期待があるが、価格が高過ぎて手が出ない。太陽光のあたる昼間、脱炭素タイムを決めてノーストーブ・ノー電気で、縁側で日向ぼっこをしながら過ごしている。
 議論のなかでは、飯田氏のいう太陽光等の「文明史的大転換」「三つの破壊的変化」について、本当にそうなのか、過大評価ではないか、といった疑問が出された。また、前内閣での河野・小泉タスクフォースの対する飯田評価も過大だ、と批判。
 「気候変動対策でも日本は世界から取り残される」ことの文脈で出てきてた森嶋通夫「日本沈没論」の話題。90年代に2050年の日本社会を予言して、「非常に長い不況時代を経験する」「現在よりずっと低い国のひとつになる」「中国、南北朝鮮、台湾との東アジア共同体形成に成功すれば、生活水準は相当に高いが国際的には重要でない国になるが、それほど不幸なことではないだろう」。森嶋予言から四半世紀たち、ネガティブな予言ばかりが当たり、ポジティブな予言については真逆の東アジア情勢だ。生活水準は下がり、国際的地位も下がり、近隣諸国とはいがみ合っている。なんという国だと、ただため息が漏れるばかり。
 閑話休題。
 話し合いは、COP26の成果を積極的に評価した小西雅子論文について。小西氏は、COP26成功の背景を ①世界中で洪水・猛暑・森林火災が猛威を振るい、人々が気候危機の脅威を共有したこと、②再生可能エネルギーの顕著な普及拡大などのエネルギー革命で脱炭素化の実現が現実的になってきたことをあげた。しかし、各国は高い目標をあげたものの具体策に乏しい事、中露首脳の欠席・インドの消極性など国際的足並みの乱れなど、楽観的になれない要素が多い、という指摘があった。COP26のマイナス面、克服すべき問題点への掘り下げがもっと欲しい、という要望も出された。

 『世界』2月号は、二つの特集を組んでいる。特集1.クルマの社会的費用、特集2.日本司法の ‶独自進化"。 


  

 


 

 

 

 

 

 

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