池明観(ジ・ミョングァン)の死を哀悼する
元日、韓国の宗教哲学者・池明観さんが亡くなった。享年97歳。
池さんは、1972年に来日、東京女子大学教授として約20年教鞭をとった後、93年韓国へ帰国した。韓国では、金大中政権をバックアップするとともに、日韓文化交流や日韓共同歴史研究の韓国側代表として活躍し、日本と韓国の友好関係を維持・発展させていくうえで欠くことのできない人物だった。
池さんの死は、岩波『世界』の長年の読者の一人として私に、T・K生著『韓国からの通信』(73~88年『世界』連載)を思い起こさせた。70,80年代の韓国では、朴正煕・全斗煥政権による民主化と人権の弾圧は過酷を極めていたが、池さんは匿名の韓国人「T・K生」として民主化運動と弾圧の情況を『世界』誌上を通して、日本と世界に発信しつづけた。また秘密裏に厳しい言論統制化の韓国にも持ち込まれ、民主派の人びとを勇気づけた、といわれている。
昨年の10月の《ZOOM『世界』を読む会》で、75年にスパイ容疑で逮捕、死刑判決を受けた在日韓国人留学生・李哲(イ・チョル)氏の獄中記『長東日誌』について語ったインタビュー記事を取りあげたが、その中で李哲氏は、『韓国からの通信』は刑務所内では読めなかったが、話題になっていた、と証言した。そして、韓国の実情を伝えるすごい報告だと思った、韓国の民主化運動に果たした役割は大きい、と語っている。
03年8月、池明観さんは東京新聞紙上(03/8/19)に「『韓国からの通信』の著者「T・k生」は私である。その連載がソウルからの発信としていたが、実は東京の借家のアパートで書かれたものだ」と告白した。そして、日本人をはじめ多くの外国人が持ち出した資料に依拠して書いた、と証言した。資料のなかには、「それにからむ数多くの悲しい物語が含まれていた。60人にも余る若者が民主化のために気高い焼身自殺の道を選んだという、とても高揚した時代であった。そのために私は涙の中でその抵抗の物語を書き続けざるを得なかった」と振り返った。
東京新聞記事は、『韓国からの通信』の著者が日本に滞在した韓国人学者・池明観だった、ということを明らかにしたが、資料の韓国からの持ち出しについては、「日本人はじめ多くの外国人」としているだけで、それがどのような人たちなのかは明らかにしていない。私は何となく、キリスト教関係者だった、と思い込んでいた。
上述した李哲氏へのインタビューの中で、李氏がある人から聞いたという驚くべき推理に、衝撃を受けた。推理は次のとおりである。朴正煕政権下、KCIAが全力をあげて『韓国からの通信』の著者「T・K生」を掴まえようとしているのに、逮捕出来ない。何故か? どのようなラインで日本へ送られているのか。考えられるのはひとつしかない。アメリカのCIAだ。
アメリカのCIAの関与は、あくまでも推理の域を出ない。しかし、蟻一匹通さないKCIAの徹底的な情報統制を知っている韓国の人にとって、この推理は説得的だ。米国政界に保守派とリベラル派の対立があるように、軍部や情報機関に中にも保守・リベラルの対立があることは、想定の範囲内である。そうとすれば、当時のCIAのリベラル派の個人が、韓国内の民主化と弾圧の情報を国外を持ち出して池明観氏に提供したとしても、不思議ではない。とりわけ人権外交を掲げたカーター政権(77-81)のもとでは十分にあり得たことだと思う。または、カーター政権からの「韓国民主化」に向けた間接的なメッセージだったかもしれない。
池明観さんは、さきの東京新聞記事の最後に、次のように述懐している。
「いまは遠い昔の話といえるかもしれない。喜びよりも深い悲しみの伴う追想である。そして何よりも韓国の民主化を支えた、多分、日本の近現代史においてかつてなかったかのような、あの時のそれこそ燎原の火のごとき、日本の市民の励ましには、いまでも涙ぐむほどである。
そしてそのことが韓国に十分に伝わっていたのだろうかと思うのである。倫理ある社会を求めて戦った当時の人びとの志が忘れられていないだろうか。革命いまだ成らずの感が強い。困難なこのごろであればあるほど、東アジアの平和と連帯のためにあのような火が燃え続けなければと、いま年老いて私はしきりに思うのである。」
日本政府は、韓国とは慰安婦問題や徴用工問題で激しく対立し、北の共和国とは拉致問題と核・ミサイル開発で深刻な対立となっている。このように日本と韓国・北朝鮮の関係が極めて困難な時期に、日・韓(池さんの心には日・朝も含まれていただろう)の友好と交流に心砕いてきた韓国の長老の死は、日・韓、日・朝の平和と連帯を取り戻したいと願う人びとにとって、悲しい出来事だ。私もその一人して、心からの哀悼の気持ちを表したい。
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