北ドイツ周遊記-祝祭の夜-
7/6 マーストリヒト(オランダ)Maastricht
ケルンからベルギーへ帰る途中、オランダ南部のマーストリヒトへ寄った。娘のリクエストで、欧米で大人気のアンドレ・リューとヨハンシュトラウス・オーケストラ André Rieu And His Johnn Strauss Orchestra のコンサートを聴くためだ。
7/6 マーストリヒト(オランダ)Maastricht
ケルンからベルギーへ帰る途中、オランダ南部のマーストリヒトへ寄った。娘のリクエストで、欧米で大人気のアンドレ・リューとヨハンシュトラウス・オーケストラ André Rieu And His Johnn Strauss Orchestra のコンサートを聴くためだ。
7/5 ケルンKöln
ドイツ旅行の最終日には、ケルン大聖堂Dom St.Peter und Mariaを訪ねた。
まず、その大きさに圧倒された。大聖堂前の広場に集う人びとが、豆粒のように小さく見えた。ファサードを飾る数々の彫刻も精巧を極め、美しい。
7/3,4 ハーメルンHameln
ハーメルンは、ネズミ(Ratten)の街だった。街中いたるところに、ネズミがいた。舗道の敷石にも、鉄橋のうえにも、居酒屋の名前や看板にもネズミがいた。そして、人形店では、色とりどりのネズミを売っていた。ついには商店街で、魔女がネズミの血やネズミの毒入りジュースを売っていた。
7/3 クヴェードリンブルクQuedlinburg
ライプツィッヒからクヴェードリンブルクへ行く途中、二つのビックリがあった。その一つは、高速道路へ入る前の一般道を走っていた時、なんと制限速度が100㎞/hと表示されていた。片側1車線の対面通行の区間である。高速道路が有料でないため、高速道と一般道の区別が、日本ほど明確ではないのだが、それにしてもこのスピードには驚いた。また、高速道路では130㎞/hで走る娘の車を、一瞬のうちに抜き去っていく猛スピードの車が少なくなかった。アウトバーンでは180㎞/hが普通だとは事前に聴いていたが、さすがに180㎞/hは速い。
もうひとつのビックリは、ドイツの高速道路沿線での風力発電のための風車の数の多さである。今回の旅行初日の、オランダ・ドイツ国境沿いを北上するコースでも、広大な麦畑に多くの風車が建っていたのだが、ベルリン-ライプツィッヒ間とライプツィッヒ-クヴェードリンブルク間の風車の数はそれを凌駕し、驚くほど多くの風車が林立していた。ドイツ社会の脱原発・再生エネルギーへの転換の意欲の強さを感じた。
7/2 ライプツィッヒ Leipzig
ライプツィッヒは、ヨハン・セバスチァン・バッハの街だった。到着後すぐに訪ねたトーマス教会は、まさにバッハゆかりの場所だった。バッハは、1723年から1750年の死を迎えるまで、市とこの教会の音楽監督を務めた。代表作のひとつ『マタイ受難曲』は1727年、この教会で初演された。教会の前庭には、バッハのブロンズ像が建ち、教会内部のステンドグラスには、バッハの肖像が描かれていた。そのステンドグラスには、バッハの他、メンデルスゾーンやマルティン・ルターの肖像も描かれていた。メンデルスゾーンは、自らの音楽的業績とともに、忘れられようとしていたバッハの音楽をよみがえらせた功績が、人びとに賞賛されたのだ。
7/1 ベルリン 再びBerlin
ベルリンの2日目、まずグルーネヴァルト駅「17番線」にいった。1941年秋から1945年春までに、ベルリンの5万人以上のユダヤ人が、この17番線から各地の絶滅収容所へ送られた。輸送には家畜用などの貨物列車が使われ、狭い車両に100人以上の人間が押し込まれた。目的地に到着するまでは、水も食料も与えられず、トイレすらままならなかった。幼児や年寄り、病弱者のなかから衰弱のうえ死亡するものもいた。ドイツ映画『アウシュヴィッツ行最終列車 ヒトラー第3帝国ホロコースト』(2006年製作)は、貨物列車のなかの人びとが喘ぎ苦しむ様子を、リアルに伝えていた。
グルーネヴァルト駅の正面右側のゆるい坂を上っていくと通路の左側に、「17番線」から強制連行されたユダヤ人が歩いているところをイメージしたという石壁のモニュメントがあった。その隣に、「人間の生命や尊厳をないがしろにするいかなることにも、勇敢に躊躇なく立ち向かわなければならない」と警告し、移送のうえ殺害されたユダヤ人を追悼する石碑が建っていた。
6/30 ベルリン Berlin
月を跨いで2日間、ベルリンの街を歩く予定だ。ホロコーストの記憶の場を訪ねること、そしてルネサンス絵画とケーテ・コルヴィッツの版画を観ることが目的である。
ベルリンの代表的な街路であるウンター・デン・リンデンの車道脇に車を止め、ベルリン散策をはじめた。幸い、日曜日は無料での駐車可だった。初めに向かったのが、ノイエ・ヴァッヘ(新衛兵所)。19世紀初め、衛兵所として建設されたノイエ・ヴァッヘは、ドイツ再統一後の1993年、ドイツ連邦政府によって戦没者追悼施設として「国民追悼の日」(11月第3日曜日)の式典会場となった。内部はがらんどうとした広い空間が広がり、中央の採光取りのための円窓の真下に、一体の彫刻があった。版画家・彫刻家のケーテ・コルヴィッツの作品『ピエタ』(1937)の拡大レプリカである。死んだ息子を抱える母親像であるが、第一次世界大戦で戦死したケーテの次男ピーターがモデルである。
6/29 ポツダム Potsdam
前日、ポツダムのクランプニッツ湖Krampnitz see近くのアパートに到着、ここで4泊し、ポツダムとベルリン見学の拠点とすることにした。今回の旅行の宿泊についてはすべて、同行する娘が宿泊サイトbooking.comで予約したもの。このアパートは、ネット予約しすでにクレジット決済を終えていた。到着すると娘の名前を書いた紙が部屋の入口に貼ってあり、キーがカギ穴に差し込んであった。勝手に入って部屋を利用してくれ、ということだ。4泊5日の間、家主からは一切の干渉や口掛けはなかった。簡単な食事を作ることもできる。これが「民泊」というものなのか。といっても、家主への到着と出発の挨拶は勿論、やったが。
6/28 シュベリーン Schwerin
リューベックからポツダムへ向かう途中、シュヴェリーン城に立ちよる。両都市間300㌔超えの距離には、いい中継点となった。この城は16世紀、それまでの要塞が宮殿となり、その主要部分は19世紀に建設された。北ドイツで最も美しい城のひとつとされている。現在、地元の州議会議場となっている。
6/26 リューベックLübeck
今回の旅行企画で、ベルリンの次に行き先が決まったのは、ここリューベックだった。昨年末、トーマス・マンの長編小説『ブッデンブローク家の人々』をのめり込むように読んだとき、舞台となったバルト海沿いのこの街を是非、訪ねてみたいと思った。マンの一族をモデルにしたクロニクル(年代記)には、19世紀のリューベックの市民階級4世代にわたる盛衰が詳述されていた。
夕方の6時ころ、リューベックに到着するとまず、聖ペトロ教会の塔に昇り、街を鳥瞰した。まず目に飛び込んできたのは、ホルステン門だった。夕日の逆光に遮られてまぶしく、目を細めて眺めた。東山魁夷の『霧の町』のホルステン門が、まさにそこにあった。北の方角には、マリエン教会の二つの塔が並び立ち、その右側に市庁舎とその広場が見える。南東の方を眺めると、やはり双塔を持った教会があった。カトリック大聖堂だ。