2022年2月27日 (日)

歴史の忘却に抗う人びと―ドイツ・つまずきの石のこと―

 ベルリン在住のフリーライター・中村真人氏は、1947年生まれのドイツ人彫刻家グンタ―・デムニッヒ氏の『つまずきの石』プロジェクトについての取材記事を、『世界』2022/1,2月号に連載している。つまずきの石Stolpersteinは、コンクリート製の立方体に10㎝四方の真鍮のプレートを貼り付け、そこにナチス・ドイツの犠牲者の名前、生年、強制輸送、そして殺害された日付や場所が刻まれている。中村氏によれば、このプロジェクトがベルリンで本格的に開始されたのは2000年で、現在市内に9211個(2021/11)設置されている。また、プロジェクトはドイツにとどまらず、ヨーロッパ27か国約8万個(2021/9)にまで拡大している。公的援助はなく、1個120ユーロ払えばだれでも石の「保護者」になれる。
 
 まず、つまずきの石の実物を、私が2019年7月にドイツ旅行した時に撮ったベルリン市街地の1個、ハーメルン旧市街地の18個、計19個の写真を掲示する。
私のこの石との出会いは、ベルリンやハーメルンの街なかを散策していた時、偶然見つけたものだ。

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2022年1月10日 (月)

日本の空はアメリカの空

 爆弾のようにタンクを捨てるとは日本の空はアメリカの空  (長野市) 関 龍夫 (1/9の朝日歌壇)

 日米安保70年の昨年、『世界』は二つの興味深い論文を掲載した。

 一つは、古関彰一稿『戦後日本の主権と領土』(9月号)。古関は、2016年の陸上自衛隊『日米共同部』設立によって、米軍と自衛隊が一線を越えて一体化し、自衛隊が米軍の指揮下に入る可能性を指摘した。何故なら、自衛隊設置の日米交渉時の「密約」が、現在も生き続けていると考えるからだ。日本政府は当初、日本の軍事力が米国の指揮下にはいることを拒絶したのだが、その後、吉田首相は米国から執拗に迫られ、自衛隊が米軍指揮下に入ることを密約させられたのだ(米軍公文書)。このことは、日本の主権喪失と対米従属を意味する。「日本政府はあの屈辱的な日米地位協定を60年間改正する気配すらなく、米国政府は日本政府には独立意識がきわめて希薄であることを十分知り尽くしている」と、日米同盟の内実を厳しく突いた。

 もう一つの論文は、豊下楢彦稿『日米安保70年の本質-外務省は何を隠蔽したのか』(10月号)。豊下は、公開された公文書『平和条約締結調書』に基づき、安保条約交渉時の米軍基地提供問題に関する吉田首相と昭和天皇の対立を取り上げた。米側の主張の核心は「全土基地化・自由使用(望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利の獲得)」であったが、吉田は米側要求が「主権侵害」にあたるとして消極的であった。しかし天皇は、「無条件での基地提供」が天皇制防御の生命線だとして、米国の要求に全面的に同意したのである。筆者は、昭和天皇にとって戦後の「国体」は安保体制そのものであった、と指摘する。その後の米軍基地問題のすべてが、ここを出発点とするといえる。天皇の対米交渉への露骨な介入は、明らかに憲法違反であった。

 日本は「主権」を自ら放棄し、米国に従属する「属国」となったのである。こうした歴史を振り返るならば、「日本の空はアメリカの空」だと歌人が嘆息するのも、頷ける。米軍人たちの検疫逃れもまた、これに起因する。

2018年7月18日 (水)

浜田知明さんのご逝去

 版画家・彫刻家の浜田知明さんが、昨17日、老衰のためお亡くなりになりました。100歳。戦争のもたらした不条理をテーマにした版画家として、私の記憶に深く刻まれていました。
 私がはじめて浜田知明さんを知ったのは、2007年の夏でした。NHKの「新・日曜美術館」で紹介された『無限の人間愛・浜田知明展』を、桐生市の大川美術館で鑑賞し、その時、戦争の不条理さを刻した『初年兵哀歌』連作に、強い衝撃を受けました。たまたまその日、美術館滞在中に新潟・中越沖地震(7/16)の強い揺れを体験したことも重なり、忘れられない一日となりました。 

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2018年5月 4日 (金)

おろかものの碑

 昨日の午後、高崎市の群馬音楽センターで、憲法記念日集会があり参加しました。ジャーナリストの伊藤千尋さんは、記念講演『憲法を活かした社会を創ろう』の冒頭、群馬県中之条町・林昌寺の「おろかものの碑」を紹介しました。1961年に建立されたこの碑は、平凡な田舎の村で日本の侵略戦争に加担した公務員や団体幹部などが、「おろかものの実在を後世に伝え再びこの過ちを犯すことなきをねがい」自らの手で建てたものだという。保守的だと言われるこの群馬の地で、戦争における加害責任を見つめた先人たちがいたことに、驚きと同時に誇らしさを覚えました。近いうちに林昌寺を訪ね、「おろかものの碑」を見たいと思う。

2011年7月12日 (火)

第五福竜丸展示館を訪ねる

1_p1140944_1  先週の火曜日、東京・夢の島にある都立・第五福竜丸展示館を訪ねました。道路と鉄道と倉庫からなる人工の空間に、広大な公園緑地があり、そのなかの木立に囲まれて、展示館がありました。隣りのヨットハーバーから、ここが「島」であることを納得します。
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2011年3月 8日 (火)

シンポジウム「多胡碑は何を伝えようとしたのか」

 711年(和銅四年)3月9日、現在の高崎市吉井町に、片岡郡・緑野郡・甘良郡3郡に属した300戸からなる新たな郡、多胡郡ができました。この建郡のいきさつを刻した石碑が、多胡碑です。それから丁度、1300年。一昨日、高崎市の群馬音楽センターで、多胡郡建郡1300年記念事業のひとつ、シンポジウム「多胡碑は何を伝えようとしたのか」があり、聴講しました。

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2011年2月15日 (火)

シンポジウム『新田郡衙と東山道駅路』聴講

10bun_sympo_2 2,3日前の新聞記事で知り、『新田郡衙と東山道駅路』をテーマとしたシンポジウムを聴講しました。太田市(群馬)教育委員会主催で、会場は市文化ホール。案内には、「申し込み不要・先着500名」と記されていましたが、遺跡発掘の報告会なので、そんなに参加者は多くない、と思って出かけました。豈(あに)図らんや、会場ホールには、県内外から研究者や古代史ファンが集まり、座席の八割方が埋まって熱気すら感じました。

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2010年3月25日 (木)

NHK特集 「『留用』された日本人-日中知られざる戦後史」

Photo 先週の金曜日、NHK・BS番組 「『留用』された日本人-日中知られざる戦後史」を観ました。2002年に、日中国交正常化30周年を記念して制作された、戦後中国へ留用された日本人たちの証言を記録した番組の再放送です。ここには、日中間の正(プラス)の歴史が、記録されています。日中間の交流と友好な関係が、幅広くしかも奥行きの深いものとなっていくためには、こうした歴史研究やTV番組の制作・放映は、負の歴史を記録し記憶しつづけることと同様に、大切なことだと思います。

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2009年11月 7日 (土)

中国の写真家 沙飛

Img_1  今週初め前橋で、中国八路軍の従軍カメラマンだつた沙飛(さひ)の写真展を観ました。数日前の朝日新聞に紹介記事が掲載され、沙飛(1912‐49)が中国の報道写真家の草分けであり、魯迅やベチューンのデスマスクを撮ったことを知り、是非見たいと思っていたものです。

(写真は、写真展パンフレット表紙。万里の長城での戦闘1938年)。
 

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2009年8月16日 (日)

お茶と道教

_1_2  先週の日曜日、信州蓼科に古い友人3人が集まり、40年ぶりの勉強会を開きました。幹事から与えられた課題は、90分間自由に語ること、でした。東南アジア農業を研究してきた学究の友は、スライド写真を使いながら、メコン川文明を滔々と語りました。小学校校長を務めあげたもう一人の友人は、言語学の成果を踏まえて、日本語の不思議に迫り、初老の頭脳をいささか刺激してくれました。そして私は、6種類の中国茶を飲みつつ、お茶の話をしました。
 大雨の降り続く蓼科の深い森のなかで、しばし日常と世間から離れ、老いの入口に立った男三人が、アンチ・エイジングの抵抗をはじめたのです。

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